摩利支天③ 信仰と功徳

摩利支天③ 摩利支天信仰とその功徳

摩利支天は、他人から見えないという功徳があり、古来より信仰されています。ことに悪世において、危難の中に苦しむ衆生を大慈悲心をもって擁護し、安楽ならしめるために出現されます。そのご利益は「隠形」(おんぎょう)を第一とします。

目次

他人から見られないという功徳

高野山管長 金山穆韶大僧正猊下筆「摩利支尊天」扁額
住職が尊敬する金山先生の筆。当山本堂脇部屋に奉掲しています。

金山穆韶大僧正筆「摩利支尊天」金沢宝泉寺
金山穆韶大僧正猊下筆「摩利支尊天」金沢宝泉寺

摩利支天を拝むことで生じるご利益は、まずもって「隠形」(おんぎょう)を第一とします。

まりちゃん

他人から見えないという功徳ですね。

摩利支天を念ずれば、その人は他人から見られ知られることなく、捉え害されることなく、だまし罰せられることもありません。だから自らの希求するところをすみやかに成就できるのです。

古くからインドの庶民の間で崇拝され、仏教に取入れられてからも護法神として、あるいは大慈悲心をもって衆生を擁護する神として信仰されていました。やがてその造像をみるに至った摩利支天は、中国に伝えられ、唐代頃には経典の漢訳や尊像の造立が始められ、護身の神としての信仰が盛んになっていきます。

唐の代宗の頃(762-779)、不空三蔵は帝の宝詐延長のために摩利支天像を刻み、玄宗皇帝がはじめて灌頂壇に入る時に受けたのも、この摩利支天法でした。 南宋の1127年(高宗建炎元)、隆裕大后孟氏はこの天を念じて身の安全を得ましたし、唐州泌陽尉李珪は北虜の入冠に遭い、この天の名号護持してその難をまぬがれています。

わが国においては、平安時代に唐へ留学した密教僧の手によって多くの摩利支天に関する経典や図像が請来され、この天を本尊として、護身・隠身・遠行・得財・諍論勝利・必勝開運などを祈る摩利支天法が修されました。

中世以後、とくに武士の間で摩利支天が信仰されており、武士が戦場に臨む時や武術の試合などを行う前には、摩利支天に祈って加護を受けて必勝を期したと言われます。前田家や毛利家があまりにも有名です。

このように摩利支天の加護を得て勝利をおさめた者は、終生摩利支天尊への帰依を誓い、厚く信仰したとされます。

隠形第一

摩利支天(まりしてん)
(梵語 Marīci)常にその形を隠し、障碍を除き、利益を与えるという神。もとインドで、日月の光や陽炎を神格化したもので、日本では武士の守り本尊とされた。護身・隠身・遠行・得財・勝利などを祈る。二臂あるいは三面六臂、猪に乗る天女像などで表される。(「広辞苑」第7版)

摩利支天の功徳

表鬼門と裏鬼門
表鬼門と裏鬼門

鬼門を守って400年 、丸く治めるマリシテン

加賀藩の風景(28)宝泉寺(金沢市子来町)
鬼門を守って400年「丸く治める」願い反映

午前八時半。市街を一望する金沢市子来(こらい)町の高台に、黄土色の衣をまとった僧侶が姿を現した。高台のそばにあり、金沢城の「鬼門(きもん)」に位置する真言宗宝泉寺(ほうせんじ)住職の辻雅榮(がえい)さん(46)。マンションの間からのぞくのは金沢城だ。

城に向かい読経

辻さんは周囲の野仏に香を手向けた後、城に向かって手を合わせ、般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱え始めた。澄み切った秋空の下、経文は金沢の街並みに吸い込まれていくようだ。

宝泉寺は四百年間、金沢の鬼門を封じてきた寺である。「本堂で毎朝護摩(ごま)を焚(た)き、最後の締めくくりは必ずお城を拝んでいます」。読経を終えた辻さんは眼下の市街地にあらためて合掌した。

鬼門は北東の方角を示し、「鬼が出入りする方角」として忌み嫌われてきた。迷信と割り切る向きもあるが、現在も家作りの参考にする人も少なくない。京都では「鬼門」に延暦寺、江戸には寛永寺が配置されるなど、日本の都市計画と密接に関わってきた考え方と言えるだろう。

加賀藩は、金沢城の鬼門に当たる卯辰山周辺に真宗以外の寺社を集中させる「都市計画」を展開した。一向一揆や敵軍が侵攻した時の軍事拠点にするのが狙いである。金沢城下の動静をうかがうことができる宝泉寺の高台は、ことのほか重要視されたようだ。

加賀藩三代主前田利常が、重臣戸田重政(とだしげまさ)に宝泉寺を建てさせたのは、今からちょうど四百年前の一六〇六(慶長十一)年。「名人越後(めいじんえちご)」と呼ばれた剣術師範が手掛けただけに、謎めいた話も伝わる。辻さんがこう語る。

「この寺の地下にトンネルが掘られているという話も信徒から聞きました。本堂からの入り口はどこにあるのかわからないが、有事に麓(ふもと)から兵士を送り込むためだったという人もいます」

本尊の摩利支天(まりしてん)は、前田利家が兜(かぶと)の中に収め、末森の戦いなどに臨んだという逸話が残る。仏像の膝の上に乗る小さな仏様。先月営まれた創建四百年に合わせて四十五年ぶりに公開されたが、あまりの小ささに本尊と気づかずに帰ってしまう人もいたほどだ。誰にも悟られずに目的を達成する「隠形(おんぎょう)」の功徳を、体現しているのである。

「角を立てずに、戦国の世をのし上がり、幕府にも丸く接して百万石を維持した。摩利支天のお姿には、丸く治めるという前田家代々の願いが重なって見えるようです」と辻さんはみる。

空襲除けの法要も

戦時中には浅野川べりへ本尊を運び、米国の爆撃機から金沢を隠す、「空襲除け」の法要も営んでいる。ご利益を求めて選挙での「穏やかな勝利」を願い、ひそかに訪れる議員は少なくない。

現代の「鬼門封じ」の意味を問うと、こんな答えが返ってきた。

卯辰山の周辺では、宗派は違えどさまざまな寺社がそれぞれの祈りを捧げている。それが落ち着いた街並みを作り出し、街全体によい影響を与えている。我々の祈りは一種の危機管理だと思う。」

宝泉寺など卯辰山近辺にある寺社の総数は約五十。鬼門での膨大な「祈りの集積」が金沢の安全を守っているのかもしれない。

鬼門 鬼門は、古代中国の地理書である「山海経」がもとになって、日本に伝来した考え方とされる。近年、平安時代の祭祀具ご発掘された七尾市の小島西遺跡では、出土品が北東の方角を向いていることから、「鬼門封じ」の意味があったと指摘する研究者もいる。

(北国新聞2006年11月05日)
まりちゃん

仏様には仏様にあった場所があります。
摩利支天は、人生の崖っぷちで力を発揮する仏天。
摩利支天を本尊にまつる宝泉寺の本堂も崖っぷちに建ち、
大きな悩みを抱える人々に加護を与え、やさしくつつみます。

住職

毎朝、護摩が終われば、境内から金沢市街を眺めながら祈ります。

金沢を空襲から守った摩利支天

コロナウイルス退散を祈願

摩利支天に古武道の居合を奉納 

土佐伝統の無双直伝英信流を県内に伝えた野村條吉氏の孫弟子、北島国紘さん(68)が摩利支天に居合を奉納されました。

古流の居合 次世代へ

古流の居合 次代に

土佐伝統の無双直伝英信流を県内に伝えた野村條吉氏の孫弟子、北島国紘さん(68)=昭和町=が16日、子来町の真言宗宝泉寺で居合を奉納する。加賀藩の剣術師範が建立し、武運祈願、護身除災の信仰を集める寺で地元の人が演武を披露するのは近年は少なく、北島さんは「由緒ある地で演武を奉納し、古流の居合を次世代に伝えていきたい」と意気込んでいる。

金沢城の鬼門に位置する宝泉寺は、1606(慶長十一)年に加賀藩三代藩主前田利常が重臣の富田重政(とだしげまさ)に建立させた。藩祖利家公が末森の合戦などで兜に納めていたとされる「摩利支天(マリシテン)」を安置している。

武芸ゆかりの寺

毎年正月に同寺を参詣している北島さんは、同寺が武芸にゆかりのあることから、流派の発展を願って奉納を申し出た。辻雅榮(つじがえい)住職によると、全国から諸芸をたしなむ参詣者が多く訪れるが、近年は地元住民による演武奉納はなかったという。

当日は天狗がすんでいたという言われ画あるがある「五本松」のそばで、北島産がさんが真剣を使った座居合や立ち会い立居合を披露する。北島産はさんは「多くの人に演武を見てもらい、古流の居合に興味を持ってもらえたらうれしい」と話した。

(北國新聞 2010年5月5日)
「古流の居合 次代に」宝泉寺で演武奉納
「古流の居合 次代に」宝泉寺で演武奉納(北國新聞 2010年5月5日)

古武道の居合を奉納

古武道の居合を奉納

子来町の真言宗宝泉寺の春期大祭に合わせ16日、無双直伝英信流居合伝人の北島國絋さん(68)=昭和町=古武道の居合を奉納した。

五本松がある境内に張られた縄の内側で、北島さんをはじめ、石原丈裕さんと清水幹郎さんが演舞を披露。訪れた住民や外国人観光客が迫力の太刀筋に見入った。

金沢城の鬼門に位置する同寺は、前田利家の守り本尊、摩利支天を安置している。三代藩主前田利常の命で、富田(とだ)流の名手として知られる重臣富田重政(しげまさ)が建立した。

同寺には、武術を志す参詣客が多く訪れていたが、近年、武芸を奉納する人が途絶えていたため、北島さんが流派の発展を願って奉納を申し出た。

(北国新聞2010年5月17日)
住職

加賀藩の剣術指南であった剣豪「名人越後」富田重政公が建立した本堂で居合の奉納がございました。ありがとうございます。

もっと知りたい、摩利支天!

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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