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金沢空襲を裏づける資料があらわれました!
米国立公文書館保管の資料の中から、金沢空襲の偵察写真や当時の作戦計画書などが発見されたそうです。
7月17日付の北国新聞の第1面に掲載されていました。
太平洋戦争末期、米軍の空襲が日本の都市を焼き尽くす中、金沢も空襲の標的で、綿密な作戦計画書まで用意されていたことがわかりました。
ちなみに新聞に大きく掲載されている写真は、米国立公文書館に保管されていたものです。金沢城址を中心に、浅野川と犀川にはさまれた金沢の市街地が鮮明に写っています。撮影された日付は、終戦まで2ヶ月を切った1945(昭和20)年6月21日です。
米軍による日本空襲の実態を研究している元徳山高専教授の工藤洋三さん(山口県周南市)によると、この偵察写真は、「1945年の284番目の作戦で、実行部隊は第21爆撃機集団の第3写真偵察戦隊が撮影。6月21日に、高度27,000フィート(約8,200メートル)から、焦点距離1000ミリのレンズで撮影」されているとのこと。
金沢空襲の偵察写真発見
終戦の年、6月に空撮
太平洋戦争末期、米軍が金沢を空襲するために上空から撮影した市街地の偵察写真が、16日まで米国国立公文書館で見つかった。撮影日は1946(昭和20)年6月21日で、第九師団司令部が置かれた金沢城を中心に、当時の街並みが鮮明に写っている。米国内の空軍基地では、「4500メートル上空から70分以内で攻撃」と具体的な攻撃内容を記した作戦計画も発見された。実行されていれば金沢が焼け野原になったかもしれない空襲計画の全貌が浮かび上がった。
米公文書館で山口の研究者
本土空襲の実態を研究している元徳山高専教授の工藤洋三氏(68)=山口県周南市=が確認した。工藤氏は、1994(平成6)年から米国立公文書館やアラバマ州のマクスウェル空軍基地内米軍歴史資料室に通い、機密指定が解除された米軍資料を複写して集め、分析を続けている。
写真は、米軍の第21爆撃機集団・第3写真偵察戦隊所属の偵察機F13が、金沢市街地を上空約8200メートルから撮影した。焦点距離1000ミリのレンズが使用され、中央に金沢城や兼六園、陸軍の兵器史廠(ししょう)兵器庫、出羽町練兵場、西に金沢駅などがくっきり見える。
工藤氏によると、米軍は同じ日に福井、富山の市街地も撮影しており、両都市の写真も米国立公文書館に保管されている。
米軍計画書「高度4500メートルから70分攻撃」
金沢空襲の計画は、富山の計画書と同じ1945年7月20日付。マリアナ諸島の基地から出撃し、硫黄島、静岡県御前崎、黒部、穴水、志賀を経て金沢に向かうルートで、必要兵力は「4個郡団」とされている。富山大空襲は同年8月2日に実行された。
計画書にはこのほか、「爆撃時の高度は4500〜4800メートル」「個別の機により70分以内で爆撃する」「爆撃時の速度は時速310キロ」など、詳細な指示が記載されている。
第20航空軍司令部が1945年8月6日付で作成した「週間作戦報告書(7月29日〜8月5日)」も見つかった。報告書では「今後の夜間焼夷爆撃目標」として12都市が挙げられ、筆頭が金沢だった。12都市のうち、福山が8月8日深夜に、熊谷、伊勢崎が終戦日の同15日未明に空襲を受けている。
日本の近代史に詳しい金沢星陵大の本康宏史教授は「金沢空襲計画の詳細を知ることができる大変貴重な資料であり、非常に興味深い」と話す。
金沢空襲計画の詳細は7月20日発売の月間北國アクタスに掲載する。
(『北國新聞』2018年7月17日)
米国政府下の独立機関で、政府の書類と歴史的価値のある資料を管理・保存する。本館と運営部門はワシントン、保管所自体は米国各地に33ヶ所ある。保管している資料は、60億部を超える文書の原本や、地図約270万点、設計図約350万点、写真約1100万点、ビデオ約22万点など。
実は、米軍が6月21日に撮影した都市は金沢だけではありませんでした。工藤さんが収集した資料によると、偵察機はこの日、室戸岬付近から日本の上空に侵犯し、姫路・宮津・舞鶴・敦賀・金沢・富山・浜松のルートで各都市の写真を撮影。このうち金沢を除く7都市は、悲しいかな、実際に戦火に見舞われています。
「おおむね撮影ルートに沿って順番で空襲が実行されています。隣の福井や富山が爆撃を受けて、なぜ金沢が受けなかったのかについて、はっきりしたことはわかりません。ただあの精細な航空写真を見れば、少なくとも米軍が空襲の標的の一つとしてカウントしていたことは明らかです」
(2018年7月20日発行「月刊北國アクタス」第349号、北國新聞社)
焼夷弾の設計と試験に関して広い経験を持つイーウェル(Raymond H. Ewell)博士(米軍国防研究委員会焼夷弾部門における専門委員)は、焼夷空襲にともなう火災の発生と拡大、大火にいたるプロセスを述べています。
焼夷弾の発火によって建物内に小さな火災が発生しても、最初の2〜3分であれば建物の居住者によって消すことができる。
火災が拡大すれば居住者にはすぐに手に負えなくなるが、消防隊員でなくても訓練を受けた民間人であれば消すことができる。
しばらくすれば、民間人の手には負えなくなるが、そうした火災も消防自動車の出動によって対応できる。
しかしすぐに一つの消防組織では対応できなくなり、いくつかの消火隊の協同を必要とする火災となり、
ついに専門の消防組織も対応できない大火に発展する。
イーウェル博士らの研究では、これらの段階のうち第1、第2段階を居住者や訓練を受けた民間人による消化の段階として、焼夷弾を大量に投下すれば、天井裏に留まる焼夷弾など、素人では消すことができない火災が残るとした。
こうした民間人による初期防火を生き延びる火災、言い換えれば、動力を備えた専門の消防設備なしには消すことのできない火災を、当初、アメリカでは持続火災(continuing fire)、イギリスではアプライアンス火災(appliance fire)と呼んだ。
このアプライアンス火災こそが、焼夷空襲の理論を理解する上で最も重要な概念である。
米側の記録により日本本土空襲の経過をたどると、攻撃側がいかにアピアランス火災を増やすために多くの議論を重ね、試行していたかがわかる。
(工藤洋三編『日本の都市を焼き尽くせ!』都市焼夷空襲はどう計画され、どう実行されたか』)
米軍が金沢空襲を計画していた決定的な証拠を、マクスウェル空軍基地歴史資料室に保管されているそうです。
文書の表題は「FRAGMENTARY COMBAT PLAN KANAZAWA URBAN PLANNED 20 JULY 1945」すなわち、「1945年7月20日に計画された金沢市街地に対する個別戦闘計画」です。米国は計画書を作成してから、およそ10日前後で作戦を実行していたといいます。実際、金沢と同じ7月20日付で計画書が作られた富山は、8月2日未明に空襲を受けています。
必要兵力として「4個群団」が想定されていますので、1群団30機として、それぞれが4グループあるから120機程度の出撃を予定していました。
爆撃航路は次の通り。
基地 → 硫黄島 → 静岡県御前崎 → 富山県黒部 → 石川県穴水 → 石川県志賀(攻撃始点) → 目標(金沢城付近) → 静岡県御前崎 → 硫黄島 → 基地
御前崎で日本上空に入り、そのまま富山湾を目指して北上。富山湾に出たら能登半島へ向きを変えて、志賀付近で攻撃態勢に入りながら一気に南下して金沢を爆撃するルートが予定されていたようです。
爆撃については、次のような詳細な指示が書かれています。
工藤さんは、
徹底的な調査と情報収集によって、米軍は、金沢なら大きな抵抗を受けることなく爆撃できると考えていたはず
(2018年7月20日発行「月刊北國アクタス」第349号、北國新聞社)
と指摘します。
徹底的に調べ上げた上での空襲計画であったわけです。
それがなぜどうして、金沢が空襲から免れることができたのでしょう。不思議でなりません。
はたして、単なる偶然でしょうか?
後編に続く