〒920-0836 金沢市子来町57
電話 076-252-3319
高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
金沢が戦火を免れた理由について、「京都や奈良のように都市の文化的価値が考慮されたから」というのがあります。
また金沢は、「富山に比べて重要な工業が少なかったため、空襲を免れた」という見方もあるようです。この説について、工藤さんは「中小都市の空襲の狙いは日本の戦意喪失にあったのも事実であり、産業の少なさだけで金沢が空襲を免れたとは言い切れません」と指摘しています。
石川県立歴史博物館の石田さんは、「戦況は刻一刻と変わるのが常であり、作戦も臨機応変に変更されていたと考えるのが自然でしょう。確かなことはわかりませんが、梅雨の変わりやすい天気が影響を与えた可能性は捨てきれないでしょう」と推し量ります。
ちなみに金沢地方気象台に残っている1945年の金沢の天気の記録では、空襲計画書が作られた7月20日から同月末まで雨や曇りでほぼ占められ、8月1日から終戦の8月15日までは曇りや晴れが目立ちます。
本来であれば、7月中に金沢を空襲する予定だった米軍が、天気不良が続いたため後回しにしているうちに、作戦自体の方針が変わって計画が白紙になったのかもしれません。
(参考文献:2018年7月20日発行「月刊北國アクタス」第349号、北國新聞社)
Oさん(当時80代男性)は、宝泉寺に参拝に来られるたび、くりかえし同じ話を私にして聞かせてくれました。
住職さん、これだけは覚えておいてください。
私は摩利支天様に守られて、今日まで生きてこられました。
ここの摩利支天様は、秘仏(ひぶつ)といって、だれもそのお姿を知りません。
ところがです。住職さん、知ってますか?
太平洋戦争末期、本土空襲がはじまり、次は金沢だといわれていました。
そのときですよ。摩利支天様が浅野川べりにおりられたのは…
(当時の宝泉寺)住職さんが摩利支天様を白い布に包んで、坂道をおりてゆかれました。
長い行列でね。
川べりに祭壇をきずいて、摩利支天様をおまつりして、大きな護摩を焚いたんです。
ものすごい煙と炎でしたよ。
師団長やお偉い方がたくさんみえられていましたね。
表向きは戦勝祈願ですが、私はそうではなかったと思っています。
導師は京都から来られた管長様でした。
住職さん、忘れないでください。
摩利支天さまが金沢を守ったんです。
金沢を空襲から守ったんですよ。
それを知っている人は、もうずいぶん少なくなりました。
だから住職さんに、言っておこうと思いましてね。
高野山から金沢にやって来て、まだ日が浅い私に教えてくれました。
Oさんは参拝のたび、何度もなんども教えてくれました。
戦時中には浅野川べりへ摩利支天を遷座して、米国の爆撃機から金沢を隠すため、「空襲除け」の法要も営んだことを..
Oさんがいう「大きな護摩」とはいったい何だったのでしょう?
それを調べようと思った矢先、宝物庫の書架から「願文(がんもん)」と表書きされた文書が出てきました。包みを開くと、中から行書体で墨書された文書があらわれました。
願文とは、仏・菩薩の本願を書き表したもので、法会のとき神仏に願いを立て、その起請の趣旨を記した文章のことです。法会を司る導師が、祈願の趣旨をとりまとめて記し、法会を代表して奉読することになっています。
当日、読まれた願文の一部をざっくり読み下し、今風に訳してご紹介いたします。
願文からOさんがいう「大きな護摩」は、柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)であったことがわかりました。
ざっくり読み下してみました。
願 文
謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆ことに
わいては本尊聖者摩利支尊天諸眷族等総じては三国
伝燈諸大祖師尽空法界一切三宝の境界にもうしてもうさく
それ宝泉寺本尊摩利支尊天といっぱ魔軍降伏の薩埵にして
戦勝護国の霊尊たり。しかればすなわち遠く前田利家公を始め歴
代藩主崇敬を霊応に捧げ、加能越の衆庶等帰依を
尊前に運んで幾百星霜。破邪剣光は久しく白山の霊
雪とともに耀き、摂受の慈雨はとこしなえに北陸の天地を潤す。
今や魄敵反攻を策して侵寇執拗を極め、先に硫黄島を
奪取して基地と化し、魔翼を列ねて日夜本土を襲い、近くは土足を
西南沖縄に印して、日本抹殺企図を旦暮に進む。嗚呼
幾多の神兵孤島に恨みを呑み、幾多の勇士蒼穹に特攻して再び
還らず。肇国三千年の神州すでに戦場と化し国運まさに
大関頭に立つ。憤激なんぞ堪えん。
〈中 略〉
仰ぎ願わくは、本尊聖者を始め
たてまつり部類眷族等曼荼羅の本位よりこの聖坦に降臨し
所設の法味を嘗めて速やかに必勝の妙計を廻らし、護国の英
霊亡魂等来臨して信徒の懇願を垂れたまへ
〈中 略〉
昭和二十(1945)年四月二十三日
真言宗総本山醍醐寺座主
三宝院門跡大僧正 恵眼 敬白
さらに、を今風に訳せば
宝泉寺の本尊摩利支天は、悪魔を屈服させる菩薩にして、戦に勝って国を護る霊験あらたかな仏さまです。
それゆえに遠くは、前田利家公をはじめ歴代藩主が崇め敬い、不思議な感応に捧げています。
北陸の多くの方々もまた摩利支天におすがりして参拝し、長い年月を重ねてきました。
誤った見解を打ち破る(智慧の)剣の光は白山の清らかな雪とともに耀き、相手に逆らわず、その主張や行為を受け入れながら導く慈しみの雨は、とこしなえに北陸の天地を潤します。
今や敵は反攻に転じ、はかりごとをめぐらしてわが国に侵入し、執拗に害を加え、先に硫黄島を奪いとって基地としました。
たくさんの爆撃機を列ねて日夜本土空襲を行い、最近では沖縄を占領して、わが国民を抹殺しようという企てが目の前に迫っています。
あまたの日本兵が孤島に恨みを呑んで亡くなり、数多くの勇士は大空に特攻して再び還らぬ人となりました。
はじめて国をひらきはじめて3000年の日本はすでに戦場と化し、国運はまさに大きなせとぎわに立っています。
このような激しい憤りは堪えられません。
そこで摩利支天様眷族もろともここに設けた道場にあまくだって、ここに設けた法会で生じた仏法の魅力を感じて、できるだけ早く勝利への妙策を廻らして、お国のために戦った英霊たちもここに集まって私たちの切なる願いを聞き入れてください。
どうかお願い申しあげます。
〈中 略〉
1945年(昭和20)4月23日 真言宗総本山醍醐寺座主 三宝院門跡大僧正恵眼 敬い謹んで申しあげます。
佐伯恵眼(さえき えげん)猊下
1873年(明治6)1月20日 〜 1951年(昭和26)1月25日)。日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。
(ウキペディア)
ふつう願文というものは、祭壇にまつられた御本尊様の前で大祇師(導師)または願文師が願文を奉読したあと、そのままご本尊に奉納する運びとなっています。法会が終わって、本尊が帰山。願文が宝泉寺に奉納されたと考えられます。
この願文の発見によって、1945年(昭和20)4月23日、金沢空襲に先駆けて、当山の摩利支天を金沢市浅野川の河畔に設けた道場に勧請して柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)が厳修されていることがわかります。願文がなによりの証拠です。
当日の御導師は、真言宗総本山醍醐寺の座主で三宝院門跡、佐伯恵眼大僧正でした。
柴燈大護摩供とは、野外で行う大掛かりな護摩供のこと。なかでも醍醐寺の歴代座主猊下は、柴燈護摩供の名手としてよく知られているところです。
Oさんが言っていた「摩利支天が浅野川河畔におりて、大きな護摩を焚いた」というのは、まさにこの大柴燈護摩供のことだったんですね。
「当時の(宝泉寺)住職が摩利支天様を白い布に包んで、坂道をおりてゆかれました。長い行列でね。川べりに祭壇をきずいて、摩利支天様をおまつりして、大きな護摩を焚いたんです。ものすごい煙と炎でしたよ。」
佐伯恵眼座主が大祇師をつとめる柴燈大護摩供を目の当たりにされたのですから、まちがいないでしょう。
小さなお寺の本尊「摩利支天」が金沢を空襲から守るため、浅野川べりに運ばれ、大規模な祈願祭が営まれたというのは、本当だったのですね。
柴燈大護摩供の本尊は、不動明王のはず。
空襲よけ祈祷の本尊は、なぜ摩利支天でなければいけなかったのか?
昼夜を問わず、爆音を響かせて頭上を飛んでいく米軍機。そのたびにけたたましく響く空襲警報のサイレン。金沢市民の多くは、空襲を現実のものとしてとらえ、さぞやおびえられたことでしょう。迫り来る恐怖に、ワラにもすがる思いで、川べりに摩利支天を勧請し、神仏や英霊たちに祈願されたことでしょう。
金沢を空襲から回避できた理由については、確たる答えはいまだ出ていないようです。もし空襲が実行されれば、まちが焦土と化す恐ろしい計画があり、人々を脅かしたのは事実。迫り来る金沢空襲の恐怖の中、浅野川べりに摩利支天を勧請(来臨を請う)して、空襲除けの祈願を厳修したことも、後世に伝えなければならない戦争の記憶の一つです。
前編です!
やっぱり、平和が一番だな