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高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
宝泉寺は、金沢の隠れ寺(カクレデラ)といわれています。
なぜそういわれるのか、解説してみたいと思います。
朝、外から本堂を礼拝すると、太陽を背にした影絵のように、お堂のシルエットが浮かんで見えます。
次の瞬間、まばゆいばかりの強烈な光に照らされて、お堂が消えてしまいます。
これには、アッと驚くヒミツがあります。
なぜお堂が隠れてしまったのでしょう。
お堂が建っている位置や方角が関係しているのでしょうか?
大いに関係ありです。摩利支天を安置する宝泉寺の本堂は、南東を背に北西に面して建てられています。
たいていのお堂は、北を背に南に面して建てることが多く、浄土の教えに基づくお堂は、西を背にして建てられるようです。しかし宝泉寺は、例外。わざわざ朝日を背にして建っているのです。
なぜでしょう??
このナゾを解くカギは、摩利支天を説く経典にありました!
日の前に天あり、摩利支と名づく。
『摩利支天を説くお経』
大神通自在の法あり、常に日の前を行き、
日は彼を見ざるも彼よく日を見る。
人のよく見るなく、人のよく知るなく、
人のよく捉えるなく、人のよく害するなく、
人のよくだますることなく、人のよく縛するなく、
人のよくその財物を債するなく人のよく罰するなく、
怨家もよくその便を得るを畏れず。
意訳
太陽の前に天尊があり、摩利支天と名づけられている。
不可思議な力があって、いつも太陽の前に先だって行き、
太陽はまぶしい太陽の光で摩利支天を隠すけれども、摩利支天からはよく見える。
誰一人として摩利支天を見ることもなく、人によく知られることもない。
とらえられることもなく、害を受けることも、
だまされることも、しばられることも、
借財することも、罰をこうむることもない。
互いに憎みをもつ者同士、連絡を得ても畏れない。
このような摩利支天のすばらしさを知って、信仰する人もまた、同じような徳が自らそなわるといわれています。
お経によると、摩利支天という仏天は、いつも太陽の前にいらっしゃるとあります。ですから摩利支天を本尊とする宝泉寺の本堂は、そのとおり朝日を背にする方角と位置にお堂が建てられているのです。だから朝日を受けると、逆光で見えなくなるのです。
太陽の前に摩利支天があって、いつも太陽に先だって行くから、まぶしい太陽の光で誰にも見えない。だけど摩利支天からは見えている‥
摩利支天の特質をよく理解した上で、「隠形」という功徳を最大限に発揮できる時間と方角を考慮したベストポジションに摩利支天をまつる本堂が建てられたのです。
それでは実際に、お堂が消える様子をごらんにいれましょう。
この写真は、2006年10月7日の朝、当山400年祭のスナップ。
本堂では、住職による八千枚護摩修行が行われています。
住職の護摩供が終わった頃、お堂の背後から太陽が昇ってきます。
朝日の前を駆ける摩利支天(輪宝)があらわれました。摩利支天です。
さあ、いよいよこれからです。
すっかりお堂が消えてしまいました。
ただし本尊摩利支天からは見えています。何もかも丸わかりです。
「鬼門(きもん)」とは北東の方位のことで、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角。鬼門とは反対の南西の方位を「裏鬼門」といい、この方角も忌み嫌われています。
宝泉寺は、金沢城から見てちょうど鬼門(北東)の方角にあって、市街地と川をはさんで、お城と対面する高台にあります。
現在、宝泉寺がある高台の標高は52.50メートル。金沢城(天守跡かと思われるもっとも高い場所で)標高58.8メートル(iPhoneアプリ「標高ワカール」)。
金沢城の本丸に置かれていた天守閣については、徳川幕府が誕生する以前の時期に、初代藩主の前田利家公によって五層建ての壮大な天守閣があったようです。その本丸あたりから(市街地と浅野川をはさんで空間を飛び越えて)宝泉寺まで、直線距離で1240メートル。
1602年の落雷で焼失した後、藩主の御殿を二の丸に移されたということですから、念のため二の丸広場から宝泉寺までの計測すると、直線距離にして1075メートルでした。いずれにしても案外、近いことがわかります。
宝泉寺の高台から法螺貝を吹けば、お城まで聞こえるかも..
宝泉寺の高台に立って耳を澄ませば、お城から聞こえる音が拾え、眼前に180度以上の眺望が開け、南は医王山から北は内灘の海まで見渡せます。
宝泉寺は標高50メートルそこそこ。いまのビルの高さで15階から20階くらいなので、市街で暮らす人々の様子や、社会状況などをざっくり読みとることも不可能ではありません。
ほかにも見晴らしのきく場所がありますが、金沢城の鬼門の正面にあって180度展望がきいて、なおかつ浅野川をはさんでほぼ同じ標高でお城と対面できる場所は、ここしかありません!
万が一、ここに敵の砦が築かれたらどうでしょう。加賀藩はたちまち窮地に陥ります。是が非でも、この要地を敵の目から隠さなければなりません。この窮地を救う守護神は、「武神」摩利支天をおいてほかにいらっしゃいません。すべてを包み隠すという摩利支天の「隠形」の功徳にあやかるほかないのです!
そこで1601年(慶長6)、二代藩主前田利長公のとき、お城と対面する鬼門(北東)に当たる高台1万坪を寄進。「摩利支天山」と命名され、1606年(慶長11)、中条流の剣豪で、加賀前田家の剣術指南であった富田越後守重政が金沢城越後屋敷の摩利支天を遷座。新たにお堂を建て、摩利支天を安置たてまつったのが、当山のおこりとなっています。
その目的は、摩利支天がもつ隠形の力でもって、鬼門を封鎖し、この要地を敵の目から隠すためだったに違いありません。
しかも摩利支天をおまつりするお堂は、富田流の剣豪で、前田家加賀前田家の剣術指南だった富田重政の創建にかかります。まさに鬼に金棒ではないでしょうか。
摩利支天を供養するために、別当宝泉坊が勤め仕えて以来、当山の歴代住職がこの山で護摩を修して守り続け、いまなお三つの力で、金沢城の鬼門を封鎖しています。
金沢城の越後屋敷は、剣術の達人であった富田越後守重政の邸宅があったところです。のちに藩主が江戸の藩邸に行っている間、老臣らが政務をとりおこなった場所として知られています。
それだけではありません。
藩政期は、情報によって、この鬼門(金沢城の要所)を封鎖してきたとも考えられます。
この霊場に伝承されてきた怪奇談が少なくありません。
その一つに、泉鏡花の小説「五本松」(明治31年12月号『太陽』巻第6巻第2号収録)があります。
古くから境内には「五本松」というご神木があって、魔神のすみかだと畏れられてきました。
少しでも侮蔑を加えると、たちどころに罰をこうむると、その証左に例をあげて紹介されています。
小説「五本松」の朗読をアップロード
お聞きください!
金沢城と対面する高台(要所)を隠すため
・隠す功徳がある摩利支尊天を本尊まつる堂宇を加賀藩の剣術指南であった富田重政に建てさせた。
・朝陽を背にすると見えなくなるような位置に本堂が建てた。
・当山の先々代住職が参拝道を広げるまで、寺への参拝道が狭くつくられていた。
・寺にまつわる怪奇談を吹聴した。
裏を返せば、ここがそれだけ特別な場所であったいうことか..
恐ろしいウワサを流して、容易に人を近づけなかったと考えると、
合点がいきますね。
境内に入ると、明らかに空気が変わりますよね。これが結界なんですね。本堂に近づくにつれ、ビリビリとくる摩利支天の霊力。護摩の加持力。あなたも体感することができるかもしれません。正真正銘、鬼門封鎖の隠れ寺、宝泉寺といわれる由縁です。
それにつけても、スゴイお寺ですね。