高野山孔雀堂ものがたり 4

孔雀

孔雀明王を語る上で避けては通れない孔雀明王の仏画の名品(縦168.8cm 横103.0cm)があります。

京都御室仁和寺所蔵の国宝孔雀明王像です。

中国北宋時代に制作されたと考えられています。3面6臂という複雑な像容をきわめてリアルに表現しています。画面中央、羽を大きく広げた孔雀の背に3面6臂の孔雀明王が出現。明王の周囲から後方にたなびくように描かれた霊気が神秘的です。

明王は女性を思わせるスレンダーなからだつき。お顔の左右には茶色の暴悪相が配されています。6臂の手はほぼ左右対称。左右の第1手は胸の前で合掌。左第2手は弓、3手は五鈷杵をのせます。右第2手は2本の箭をとり、第3手は戟。

高野山の孔雀明王とは趣を異にする独特なお姿ですね。

さて今回は、仁和寺の孔雀明王像の複製に関するお話しとなります。

目次

手ずりの木版印刷

江戸の昔、全盛を極めた浮世絵版画は、明治に入るとがぜん衰微し始め、1887年(明治20)前後にはまったくその製作もあぶなくなってきます。ドイツから印刷機械が輸入されて、印刷物のコストが下がり、手彫りや手ずりの木版印刷が、それについてゆけなくなったからです。

それでもまだ関西には、光村利藻(みつむらとしも)氏が主催する美術印刷の一大グループがありました。

1904年(明治37)、アメリカのセントルイスで開催された万国博覧会に、日本独自の木版印刷による世界最大のものを製作して出品することになり、京都仁和寺所蔵の国宝孔雀明王像を復元することに決まります。

苦心の末に撮影を終え、(現在のようにカラー写真ではないから)原寸通りに引き伸ばし、それを仁和寺まで持っていって、現場で現画と見くらべながら現画通りに着色。これでもって、木版多色刷りで孔雀明王像を印刷しようというのです。

当時、版画の摺師(すりし)として名高い田村鉄之助が選ばれ、着色した孔雀明王像の写真を仁和寺に持って行って原画と比較。その色彩をつぶさに点検した結果、その原画の色彩を、見た通り忠実に復元するには、1,000回以上印刷しなければならないことが判明しました。

さっそく準備にかかります。まず版木の桜材の乾燥したものをさがすのに2カ月。印刷するための大版の鳥の子(紙)を抄(す)かせたり、ぬめ(絵絹)や絵の具を吟味。

そして、いよいよ彫板です。親版を彫るために原画の上に雁皮紙や薄い美濃紙をあて、それを透き写しコピー。それを版木に貼りつけます。写真撮影の関係で12枚に分割し、それらを貼りつけて彫板。

これが終わると、違った色の部分をそれぞれ彫板。これを印刷するとき、版画がズレないように「見当(けんとう)」なる目印を完全に彫りつけておきます。見当とは、版画や印刷などでする紙の位置をきめるための目印のこと。この見当に紙の隅を正確に当ててすります。こうして違った色を重ねてすること、1,300回以上でありました。

(複製)仁和寺御室 孔雀明王像
(複製)仁和寺御室 孔雀明王像

いくつかできあがったものを仁和寺に持参して、光村氏・田村氏・その他関係者数10名・仁和寺管長・帝室博物館長・美術学校校長などの立ち会いのもとに、原画との対照会を開催。列席の諸氏が絶賛したといいます。

このとき複製された孔雀明王像は、1幅を天皇陛下に献上。1幅を李王職博物館が買い上げとなったそうです。セントルイス万国博覧総裁より光村氏に名誉金牌の授与がありました。

光村利藻(みつむらとしも) 1877-1955
明治-昭和時代前期の実業家。明治10年11月4日生まれ。光村弥兵衛の長男。写真の趣味をもとに、明治34年神戸に関西写真製版印刷(のち光村印刷)を創立したが経営に失敗。大正3年東京で再起し、昭和3年光村原色版印刷所と改称。6年引退。印刷美を追求し、「原色版の光村」の評価をきずいた。昭和30年2月21日死去。77歳。大阪出身。

コトバンク

田村鉄之助(たむらてつのすけ)1853-1926
明治-大正時代の木版師。嘉永6年生まれ。家は代々江戸錦絵の摺師(すりし)。明治22年創刊の美術雑誌「国華(こっか)」の木版印刷を担当し、古画複製にもつくした。大正15年2月13日死去。74歳。江戸出身。

コトバンク

運命を踏んで立つ

木版多色印刷の場合は写真を元に親版を彫って、その上に紙や絵絹を見当にあて、色をすり重ねて1枚の版画をつくります。この手法は、日々の修練を大切にする密教の行法に通じるものがあるようです。

こんなまわりくどいことをせずとも、コンビニへ行けばカラーコピーがあります。

いまどきは最良にして最速。かつまたもっとも簡単。そしてもし可能であれば、もっとも安くあがる方法が望まれます。次からつぎへと新しいものを求め、飽きが来たら、ポイ捨て。そんな時代ですからね。

カラダで覚える修練や心の訓練など、時間と手間のかかかるものに関心をもつ人は少なく、ましてや技術の習得に要するひたすらな精進や、長い間におよぶ献身に耐えることを望む人は多くないと思われています。

だからといってあきらめるわけにはいかないのです。

木版多色ずり版画の技法が衰退したように、いずれ密教の行法もまたその道をたどる運命にあるのかもしれません。

それでも運命を踏んで立つ
そんな力を信じ、育んでいきたいのです

心の集中と統一

仏教の教えには、そのもっとも基本的なところに、心の内面に仏様を見いだしてゆこうということがあります。

仏教がそなえている修行のテーマは、自分の中に仏様を求め、仏様にできる限りなく近づくことです。

こんな私であってさえ、心を集中すると、思っていないような力を発揮できることがあります。心の集中と心の統一は、どんなときでも大切です。

弘法大師が重要視した密教経典の一つに『大日経』があります。そのなかに、私たちの煩悩の心をつぶさに分析する部分があって、その部分を解釈した古い書物のなかに興味深いことが書かれています。

心身ともに乱れて、少しも安定していない私の性格です。
そのものズバリ!「猨猴(えんこう)の性(しょう)」といいます。

わかりやすくいうと、落ち着きのないサルのような性質ですね。
お大師様の研究で名高い、福田亮成先生の著書の中から、その部分を紹介いたします。

猨猴(えんこう)の性〈サルの性質〉は、心身ともに乱れていて、少しも安定していません。

それは、修行者もまったく同じようなものです。

もともと、心がいらだっていて不安定あるために、俗縁にひきづられ、かかずらってしまうことが多いのです。

それはちょうど、サルが一つの枝を投げつけてもう一つの枝を取ろうと、繰り返しあがいているようなものです。

おおざっぱに言ってみるならば、人はみな、このようなものでしかありません。

心身が動揺しないようにするには、心の縁を一境につなぐ、つまり心を一境に定めて集中することです。これが煩悩を克服する方法なのです。

サルを柱につないでしまえば、その心が散乱し噪動していても、身体はとんだりはねたり暴れまわることはできません。それと同じです。

心を一境に定めて集中する、その修行こそが、仏道のもっも基本的な修行のあり方なのです。

(福田亮成著「空海散華 お大師さまとともに」口の巻  真言を唱える。阿吽社。)

私を含めて、現代人の心のさまは、まるでこのサルのようです。

猨猴
猨猴

孔雀明王像の複製は、極度の緊張と忍耐が求められる作業の連続だったことでしょう。それを可能にしたのは、見当をつけ正確に紙を重ねるやり方でした。1,300回以上摺っても、ずれることなく色を重ねられるのは、職人さんたちの技術の高さがそれを可能にしたのです。

見当に紙を当てて多色刷りするやり方は、心の縁を一境に定めて、修練を重ねる真言密教の行法と似ています。弘法大師の教えや先師が編み出した正しい修行方法にのっとって、心の集中と統一を繰り返し修練してゆくのですから。

激変してやまない世界、その私たちをとりまく状況は目まぐるしく変わります。そんな状況のなかで、確かな人間性を保ちつつ、より充実した日々を送るためには、心の集中と統一が大切です。

私にとっての「心を一境につなぐ柱」は、日々の護摩修行です。


孔雀堂ものがたり

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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