永代日護摩修行と焼正八千枚、生涯をかけた護摩修行

2018年11月28日「八千枚護摩供」金沢宝泉寺道場

1995年(平成7)3月21日から、護摩修行にとりかかり、ことあるごとに焼正八千枚護摩供秘法を続けています。

ズルやインチキを好む人は、すぐ手抜きをします。仏さまの教えどおりするには、何倍もの時間とコストが必要になることを知っているので、安易な方法を求めます。それはそれでその人が選んだやり方。一つの選択ですね。

しかし護摩修行は、それらとは別次元の話。決められた法式どおり、普通のやり方でやるだけです。

目次

虹のかけ橋

11回目の八千枚護摩供の前日(11月1日)、境内の雨上がりの空に二重の虹をみつけました。
二重の虹は「卒業」と「祝福」をあらわしているのだとか。

「卒業」とは今までの自分のがんばりが報われる節目を、「祝福」はこれから訪れるであろう幸せを意味がこめられていて、未来への幸福をあらわしているそうな。

なんであれ、あたえられた期間、精いっぱい修法するのみ。

終われば、また次の段階への扉を開けて進むだけ。

2019年11月1日、宝泉寺境内から見たの虹
宝泉寺境内から見た二重の虹(2019年11月1日、石川県金沢市子来町)住職撮影

第11回八千枚護摩供成満

みなさまのおかげで、なんとかやりとげることができました。どうもありがとうございます。

八千枚護摩供
不動明王を説くお経に、精進潔斎して不動明王の真言10万遍を唱え、さらに一昼夜断食して、八千枚の護摩木を焼く護摩修法をなせば、願いがかなう、と説かれていることより修される行を八千枚護摩供という。ふつう、正行(しょうぎょう)の7日間で10万遍、その前の加行14日間(けぎょう)で10万遍、合わせて20万遍の不動明王の真言を唱えることが多い。

炎に願いを

子来(こらい)町の真言宗宝泉寺で23日、真言密教で最も過酷とされる荒行「八千枚護摩供(ごまく)」が行われ、檀信徒70人が半日掛けて護摩木を炎にくべ続ける辻住職に、息災や病気の改善などの願いを託した。

護摩供は釈迦(しゃか)が現世とあの世を8千回往復し、人命を救ったという故事に基づいて行われている。辻住職は燃える炎の前に座り、真言を唱えて檀信徒が切りそろえて乾燥させた護摩木を投じた。檀信徒は錫杖(しゃくじょう)を鳴らして見守った。

辻住職が八千枚を成功させたのは11度目。3週間前から少量の果物や木の実などのみ口にし、1日3回護摩をたく修行を続けていた。

半日掛け「八千枚護摩供」

(北国新聞、2018年11月24日)
「炎の前で真言を唱える辻住職」北国新聞、2018年11月24日。
「炎の前で真言を唱える辻住職」(北国新聞、2018年11月24日)

八千枚護摩供で息災延命を祈願

金沢市子来町の宝泉寺で二十三日、「八千枚護摩供」が営まれ、辻雅栄住職(58)が護摩木を炎にくべ、檀信徒らが息災延命をなどの祈願を託した。

護摩供は最も厳しい荒行とされ、今回で十一回目。辻住職は勢いよく燃え上がる炎の前に座り、檀信徒が作った八千枚の護摩木を半日かけてくべ続けた。

終了後、辻住職は集まった人々に「護摩は一人ではできない。大勢の方に手伝っていただき、仏様が見守ってくださって自然と体が動く。続けることで見える世界が深まる」などと語った。

(横井武昭)

(北陸中日新聞、2018年11月24日)
八千枚護摩供で息災延命を祈願、宝泉寺(北陸中日新聞、2018年11月24日)
八千枚護摩供で息災延命を祈願、宝泉寺(北陸中日新聞、2018年11月24日)

八千枚の後かたづけ

みなさんに手伝っていただき、24日午後1時から本堂の後片づけをおこないました。この作業を一人でやると、原状復帰に何日かかることやら…

おかげさまで24名様のお力添えをいただき、4時間で元の本堂に戻りました。スゴイ! また明日から次回の八千枚護摩供に向かって、護摩の修練を重ねていきます。どうぞよろしくお願いいたします。

まりちゃん

今回は3週間で体重11キロの減。護摩の火炎にあぶられ、赤くなった顔も、一晩寝たら少しおさまってきたようです。毎度のことながらハラハラしますね。

住職

続けることの辛さ、楽しさ..

塔婆を建てる

25日、森さんと羽場さんがおまいりに来られたので、さっそく塔婆を建てていただきました。森さんには、前回もお世話になりましたね。おかげさまで、ありがとうございます。

塔婆を建てる
森さん・羽場さん、ありがとうございます。

余談ですが‥

11月23日のお天気について

2018年11月23日の満月(石川県金沢市)
2018年11月23日の満月(石川県金沢市子来町)住職撮影

2018年11月23日は夜から朝にかけて雨が降っていましたが、朝から曇。日中は時々お天道さまが顔をのぞかせていたように記憶しています。護摩修法中、たまにお堂の中まで日差しが入ってきてましたね。

護摩が終わった頃には空も晴れ、おかげで夜には満月を拝むことができました。白くて大きなお月さまでした。

24日朝、西の空にはまだ輝いてましたよ。

ちなみに2018年11月28日当日、金沢市の気象データ(1時間ごと)は次のとおり。

2018年11月28日金沢市の気象データ(1時間ごと)
2018年11月28日金沢市の気象データ(1時間ごと) ◎=曇 =雨 (気象庁)

藤原道長の「望月の歌」から1000年。

2018年11月23日(金)の満月は、藤原道長が「望月の歌」を詠んでから1000年目の満月だったそうです。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」

2018年は、平安時代の貴族・藤原道長が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」という有名な歌を詠んでから1000年目の年に当たるそうな。

京都新聞などによると、藤原道長が「望月の歌」を詠んだのは、旧暦の1018年10月16日

2018年11月23日は、旧暦の10月16日にあたるということです。これまた奇遇! おもしろいな〜

まりちゃん

あの白く大きく輝く満月を仰いで、
道長が歌を詠んだんだ。

藤原道長が「この世をば…」詠んだ千年の満月 どう見える 

平安時代に藤原道長が京の邸宅で「この世をば我(わ)が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んでから千年の満月を、22日深夜に迎える。当日の京都市内の天気は曇りの予報で、千年後の「望月」を拝めるかは微妙だが、21日夜に市内では丸い姿が浮かび、悠久の時を思わせた。

「望月の歌」は藤原実資の日記「小右記」の1018(寛仁2)年10月16日の条に記されている。3人の娘がみな后(きさき)になることが決まった日で、権勢を満月にたとえた歌とされる。新暦で言えば11月に当たり、今月の満月は23日に日付が変わる頃に迎えるという。

道長が「望月の歌」を詠んだ土御門第跡である上京区の京都御苑内の仙洞御所近くからこの日、夜空を見上げた。日が沈んでしばらく雲に覆われていた月が午後6時頃に姿を現した。流れる雲の間からさまざまな表情を見せながら美しい輝きを放った。

(「京都新聞」2018年11月21日)

この世をば…道長が詠んだ満月、1千年後の今宵も夜空に

平安時代の貴族、藤原道長(966~1027)が「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と詠んでからちょうど1千年後の満月が23日夕、昇った。栄華を極めた藤原氏の時代は移り変わったが、望月はなお欠けることなく地上を照らし続けている。

平安の貴族・藤原実資(さねすけ)の日記「小右記(しょうゆうき)」や道長自身の日記によると、道長はこの歌を寛仁2(1018)年10月16日に詠んだ。兵庫県の明石市立天文科学館の井上毅(たけし)館長が調べると、この日は確かに満月だったという。今年の旧暦10月16日は11月23日だ。

東京都港区では23日午後5時ごろ、高層ビルの上に大きな満月が姿を見せた。

(東山正宜)

(「朝日新聞 DIGITAL」2018年11月23日)
藤原道長が望月の歌を詠んでちょうど1千年後となった満月=23日午後6時26分、東京都港区、東山正宜氏撮影
住職

お月さまは、満ちれば欠ける‥
さあ、また一から出直しだ。
護摩の修練を続けよう。

お札納め〈高野山大伽藍・高野山奥之院〉

12月11日、高野山へ八千枚護摩供のお札を納めてまいりました。

・鎮守さま(高野山大伽藍明神社)
・弘法さま(高野山奥之院)

国道24号線を走って、かつらぎ町大谷から紀ノ川にかかる橋を渡って振り返ると、あざやかな虹のアーチ!神仏のご加護に感謝いたします。どうもありがとうございました。

虹のかけ橋(2018年12月11日、和歌山県かつらぎ町)住職撮影

これまでの歩み

1997年 第1回八千枚護摩供

炎の中から「仏性」見出す

五色の幕が張られた本堂には、70人近い信徒が詰めかけていた。八千枚という数は、釈迦が娑婆世界に八千度往来したという故事にちなんでおり、本堂の一角には洗って天日乾燥させた護摩木が山積みされていた。午前10時、辻住職が純白の浄衣を身に付け、修行を手助けする僧侶6人とともに姿を現した。読経に続いて太鼓が激しく打ち鳴らされた。

井桁に組んだ護摩木に点火されると炎が3メートル近く舞い上がり、辻住職がその中に一枚ずつ護摩木を投じ始めた。

「焼八千枚護摩供」は厳密に言えば、辻住職が宝泉寺に入山した翌日の平成7年3月21日から始まった3年越しの修行である。

入山と同時に「一千座護摩供」に入り、毎朝6時から護摩供を2時間たき続けた。千座を達成した後、今年10月24日からは毎日3回の護摩と水行を繰り返し、一回の座で真言を2500回、この1週間は5000回唱えた。

水と野菜、木の実、果物以外はすべて断つ3週間の食生活で11キロやせたという。

前日から断食、断水したため、辻住職は衰弱しきっていた。その体に火炎のすさまじい熱が襲いかかる。この修行で極度の脱水状態に陥り、失神する者は後を立たないという。

辻住職の表情もしだいにうつろになり、周囲の僧侶が水で冷やしたたおしぼりを後頭部や首筋にあてがった。すでに口の中は熱風で軽いやけど状態だった。

護摩木をくべる辻住職の手は休むことなく、延々と同じ動作が続けられた。信徒たちは辻住職と心を合わせるように般若心経を唱え、堂内は炎を介在した一体感に包まれた。

学芸員から転身

辻住職は尼僧の後を継ぎ、宝泉寺の27代目に就いた。真言宗の行者と言えば、近寄りがたい、いかつい風貌を連想するが、辻住職は物腰柔らかく、腰の低いタイプである。聞けば、もともと博物館の学芸員だったという。

真言宗の拠点である和歌山県高野町に生まれた辻住職は、大学卒業後、高野山の宝物を一堂に集めた「高野山霊宝館」に勤め、密教美術を研究していた。僧侶の道へ進んだのは、こんな思いが生じたからだという。

「密教は美術として扱うには限界がある。深いところまで行き着くには和尚さんにならないといけない。やればやるほど拝みたくなったのです」

卯辰山の中腹に位置する宝泉寺は、障害を取り除き、勝利の神とされる「摩利支天」を本尊とし、県議、市議などが参拝する選挙の祈願寺としても知られる。

この摩利支天は藩政期には金沢城下の守り本尊とされ、戦時中は浅野川沿いに置かれ、空襲を逃れる護摩祈祷も行われたという。

何も分からぬまま宝泉寺に着任した辻住職も、摩利支天の歴史的な重みを知り、それが「焼八千枚護摩供」に駆り立てる力にもなった。

「へんな言い方ですが、この御本尊が動きやすいようにしたい。それには浅知恵言うても仕方ない。無言のまま行をすることで、信者さんに自分の姿勢を感じ取ってもらいたかった」

「ただ、ありがたい」

護摩木をすべて焼き終えたのは、始まってから5時間後の午後3時半。辻住職は周囲の僧侶に小わきを抱えられて立ち上がり、信徒の方に向き直った。そして乾き切った口でたどたどしく、「ただ、ありがたい」と荒行達成の充実感に浸った。

「私が仏を拝んでいると思っていたのが、実は仏が私を拝んでいた。拝まれ同士の自分がそこにいた。それに気づいた時、涙が止まらなかった。仏の子として生まれたはずなのに、ここまでせんとなんで分からんのか自分が情けなくて…」

炎の中から自ら「仏性」を見出したという辻住職の思いを、信徒すべてが共有するのだろうか。堂内から、すすり泣きの声がやむことはなかった。

〈メモ〉

宝泉寺の摩利支天

東京の徳大寺、京都の建仁寺禅居庵とともに日本に3体存在する一つ、高さ5・4センチ。摩利支天は漢訳経典で陽炎、威光と訳され、日本では武士の守護神として護身、保財、勝利をもたらすとされた。前田利家もかぶとの中に納めて出陣したとと伝えられている。

(「神よ仏よ 信仰厚き北陸路を行く〈38〉北國新聞、1997年12月9日)

北國新聞、1995年12月9日
「北國新聞」1995年12月9日

2005年 第5回焼八千枚供

7時間祈り続ける
真言密教 最も過酷な荒行

辻さんがこの法会を成功させたのは今回で5回目となる。先月22日からわずかな水とそば粉などを除いて食を断ち、未明の午前1時半に起床、一日に三度、小間を焚く行を毎日続けてきた。法会は祈りの集大成と位置づけられ、釈迦が娑婆世界に八千回往来したとの故事に基づいて、炎の中に八千枚の護摩木を投じる。衰弱した体に炎の高熱が襲うため、法会の途中で気を失う行者も少なくないとされる荒行である。

白装束の辻さんは午前10時から護摩に向かい、本堂では、檀信徒の鳴らす錫杖の音、法会を手伝う僧侶の鳴らすほら貝や太鼓の音にあふれ、高さ2メートル以上に燃え上る炎を中心にした、荘厳な信仰空間が出現した。

午後5時、結願を果たした辻さんはよろめくように護摩壇を後にし、かすれた声で「人間はチームワークです。周囲の皆さんの助けがなければ、到底法会は出来なかった」と感謝の言葉を述べると、檀信徒から拍手がわき起こった。

(北國新聞、2005年11月13日)

(北國新聞、2005年11月13日)

(北國新聞、2005年11月13日)
(北國新聞、2005年11月13日)

2006年 第6回八千枚護摩供(摩利支天山四百年祭)

金沢・宝泉寺で「八千枚護摩供」

金沢市子来町の真言宗宝泉寺の創建400年祭を祝う「摩利支天山四百年祭」は7日始まり、本尊の摩利支天が45年ぶりに公開された。この日は辻雅榮住職(46)が「八千枚護摩供」を行い、2メートル以上に燃え上がる護摩の炎を前に、厳かな信仰風景を繰り広げた。

本堂では、釈迦が娑婆世界に八千回往来したとの故事に基づき、辻さんが炎に8000本の護摩木を次々と投じた。約二百人の檀信徒が錫杖を鳴らして真言や般若心経などを唱え、結願まで法会を一体となって見守った。

宝泉寺は加賀藩祖、前田利家が末森の合戦などで兜に納めていたとされる摩利支天を安置し1606年(慶長11)年創建された。8日も摩利支天は公開され、午後1時半から稚児行列がある。

本尊・摩利支天 45年ぶりに公開

(北國新聞、2006年10月8日)

(北國新聞、2006年10月8日)

まりちゃん

ご本尊ご開帳には、大勢の方々がおまいりいただき、
摩利支天さまと仏縁を結んでいただきました。

2010年 第8回焼八千枚供

宝泉寺で「八千枚護摩供」

荒行6時間 炎に願託す

子来町の真言宗宝泉寺で22日、真言密教で最も過酷な荒行とされる「八千枚護摩供」が営まれ、檀信徒約70人が6時間にわたり護摩木を炎にくべ続ける辻雅榮住職(50)の姿に息災などの願いを託した。

釈迦が現世に八千回往来したという故事に基づき、辻住職は火の粉を上げて燃えさかる炎の前に座し、八千枚の護摩木を投じた。檀信徒が錫杖を鳴らし、般若心経などを唱えて見守る中、法会は結願を迎えた。

辻住職が八千枚護摩供を成功させたのは8回目。3週間前から少量の果物や木の実など以外は食を断ち、午前1時に起きて日に3回護摩を焚く加行を続け、この日に臨んだ。

(北國新聞、2010年11月23日)
(北國新聞、2010年11月23日)
住職

千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす(宮本武蔵「五輪書」)

千日の稽古で技を習得し、万日の稽古でその技を練り上げる。なにごとも、一つのことを完全に自分のものにするには、ひたすら毎日くりかえし稽古に励むしか道はなさそうです。

護摩一つをもって、これを貫こうと思います。

護摩祈祷 宝泉寺

あわせて目を通していただきたい記事です。

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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