高野山孔雀堂ものがたり 1

孔雀

ある日の夕方、高野山金剛峯寺大伽藍を参拝していると、

孔雀堂の屋根の上に、金色の鳥が羽ばたいていました。

もしやと思って、お堂に中をのぞくと、

若いお坊さんが、一人拝んでいます。

お堂の奥には、ぼんぼりの明かりに照らされた仏様が浮かんでいました。

良田久江筆「高野山孔雀堂」宝泉寺所蔵
良田久江筆「高野山孔雀堂」

そのときのお堂の中のシーンが、上の絵(写真)です。↑

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高野山孔雀堂

高野山金剛峯寺大伽藍境内図
高野山金剛峯寺大伽藍境内図

高野山孔雀堂は、お大師さまの伝統をになう高野山の中枢というべきお堂が建ち並ぶ壇上伽藍(だんじょうがらん)に位置するお堂。孔雀堂は、お大師様をおまつりする御影堂(みえどう)の近くにあって、「後鳥羽院御祈願所(ごとばいんごきがんしょ)」という由緒ある堂宇として知られています。

昭和58年に再建された孔雀堂
昭和58年に再建された孔雀堂

現在のお堂は、1983年(昭和58)に高野山親王院前官中川善教大僧正による再建です。

もともとは、1199年(正治元)8月雨を祈って効験のあった延杲(えんごう)僧正に対する嘉賞として、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の発願により建立されたものです。もとの本尊は、仏師快慶(かいけい)作の孔雀明王像(くじゃくみょうおうぞう=重要文化財)。現在、高野山霊宝館に収蔵されています。

孔雀明王(くじゃくみょうおう)
(梵語 Mahāmāyūrī)毒蛇を食う孔雀を神格化した明王。仏母大孔雀明王経などに説かれ、一切諸毒を除くとされる。像容は一般には四臂(しひ)で、孔雀の羽などを持ち孔雀の背に乗る。孔雀経法の本尊。明王であるが忿怒相をとらない。

(「広辞苑」第7版)

しんぼっちの懺悔

当時の私は、伝法潅頂を受けてまだ数年しかたっていない、仏道を志して日数の少ない「しんぼっち」でした。

金剛峯寺大伽藍に配属されたものの、定期的に諸堂でおこなわれる大法会に圧倒され続ける日々。

高野山の伝統的な年中行事は厳粛をきわめますが、山内住侶はそれを熟知し、マスターしておられるのです。本当にすごいと思いました。

大伽藍につとめる僧侶は、諸堂に出入りすることが許されていますので、上司にあたる法会部長より諸堂の本尊を供養する行法(修行の方法)を授かりました。その中に孔雀明王の行法も含まれていました。

一日の勤務を終えてから孔雀堂に日参し、授けていただいた行法の修練にとりかかりました。

「まずは108座」(108回拝んでみよう)と修法の回数を自分で定め、1年がかりで、なんとか満願。その最終日を迎えました。

ご本尊様にお礼を申しあげ、火の始末をしてお堂を出て、扉を閉め、錠前(じょうまえ)をかけた、そのときです。

あっ、鍵(かぎ)がない! お堂の中に置き忘れた。

錠前の穴に差しこんで開放するための鍵(キー)をお堂に中に置き忘れたまま、うっかり扉を閉めて錠前をかけてしまったのです。

予備の鍵がないので、もうお堂には入られません。

いったいぜんたいどうすればよいのか、冷たい風のなか、暗い縁側に一人座って、ぼうぜんとしていました。

闇夜の満月

ふと、うしろをふりかえったとき、蔀(しとみ)の一部が浮き上がっていました。しっかり戸締まりをしたにもかかわらずです。

蔀とは屛障具(へいしょうぐ)の一つ。格子組の裏に板を張り、日光をさえぎり、風雨を防ぐ板戸のことです。上下2枚に分かれ、下1枚を立て、上1枚は釣蔀(つりじとみ)または半蔀(はじとみ)といって金物で釣り上げて採光用とする仕掛けです。その下板の金具の一つがはずれているのです。

それでなんとか、鍵を取り出すことができました。大切なお堂も無傷のまま。

時計を見ると、すでに午後10時を過ぎていました。

23年前のお粗末な出来事です。

心より懺悔いたします。

いまから思えば、しんぼっちのつたない供養を受けてくださった孔雀明王様に、ただただ、感謝です。

こんな私を見捨てることなく、辛抱強くつきそってくださって、とどのつまりすくいとってくださったのですから。

孔雀明王のお導き

孔雀堂の日参は続きます。

たった一人で拝んでいると、高貴な方がすり足でお堂に入ってこられるような、そんな気配を感じる日もあります。

どこからともなくすーと入ってこられ、私のたどたどしい行法を見守っていてくださるような、不思議なあたたかさを感じました。

ご無礼があってはいけないと思って、高野山の高僧が用いる赤いスリッパと座布団を上座にしつらえたことを、昨日のように思い出します。

いくらたどたどしいものであっても、それが行法に慣れるための訓練だと思えば、それなりの成果をおさめたかもしれません。

あせらない、あわてない、あきらめない。そうすれば必ず道はひらく。

だから続けるのだと、何も知らないしんぼっちを、噛んで含めるように教え導いてくださったような気がします。

どんなことでも慣れていないときは、むつかしそうにみえます。だけど慣れた後に、簡単にできないことはありません。

行法が習慣化し、長時間座ることに耐えられるようになった後、さらに護摩のような手間のかかる行法にも耐えることができるはずです。そう腹をくくって、がんばるしかありません。

1995年(平成7)3月、本山を退職。恩師(山岸榮岳上綱)のすすめで、金沢宝泉寺に入山しました。

不思議なこともあるものですね。

宝泉寺の先代住職に導かれて、寺の総代役員に挨拶にうかがえば、訪ねるさきざきで、いつも拝んでいた孔雀明王像が私を待っていました。

驚いたことには、訪問したすべてのお宅に、あのなつかしい孔雀明王像の写真がまつられていたのです。国指定重要文化財の快慶作孔雀明王像の絵ハガキではなく、まだ一般公開されていない、あの新しい孔雀明王像です。そんなはずがありません。ふつうでは考えられないことです。

それで理由をたずねると、宝泉寺の先々代も先代住職も中川前官御房の徒弟であったことから、高野山孔雀堂の再建に賛同し、住職と総代役員たちが浄財を寄進した。そのおしるしに、できたばかりの新しい孔雀明王像の写真が入った額縁を前官様よりたまわったということでした。

それを聞いて、肌があわだちました。

自坊の床の間をみると、案の定、同じ体裁の額縁に入った孔雀明王像が鎮座ましましておられました。私が来る前から‥ ここに。

そんなこととはつゆ知らず、伽藍奉職中、孔雀堂で特訓に明け暮れていたのですね。

恩師の山岸榮岳上綱は、中川善教前官様に長く仕え、前官様がご遷化のあと、お寺のあとを継がれました。私はその徒弟。前官様の孫弟子です。

すべてのご縁に導かれ、いまの私があります。

仏様の世界は、どうなっているのでしょうか。ほんとうに不思議です。

弘法大師は、重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるネットワークだとおっしゃいます。

重々帝網とは、帝釈天という神様の宮殿を飾る輝く網のこと。その網の結び目の一点一点は宝珠(宝のたま)になっていて、その宝珠は互いを照らし映し合って、鏡うつしになっており、これがこのまま私たちの世界の真実の姿であるというわけです。

そうでした。金剛界三十七尊が織りなす、相互供養と相互礼拝のマンダラ世界でしたね。

その一端を担う珠(たま)の一つひとつが、私たち。一生かけて磨きあげれば、社会を照らす宝となれるということです。

ネットワークの一員であるならば、その責任を果たすべく、つとめたいと思います。

飛び来る、孔雀

ある日の夕方、孔雀堂の屋根に羽ばたく金色の鳥をみて、お堂をのぞくと、お坊さんがいたという話の、ごじつたんがあります。

実をいうとあの絵に描かれた孔雀明王を拝む修行者は、この私でした。あとから作者がわざわざ自坊に来られて、あの絵を奉納して教えてくださったのです。ほんとうに不思議なことがあるものです。

修行というのは、がんばって、歯を食いしばって、自分の力を頼りに拝むものだと思っていました。

確かにそういう一面もあるでしょう。しかしそれだけではありません。

はじめからずっと、仏様の一人働きがあったということを忘れてはいけません。

どちらも大切です。

奉納していただいた絵を本堂にかかげ、孔雀堂での行法を護摩へとシフトアップして、あいからわず稽古にはげんでいます。

しんぼっちの修行は、まだとうぶん終わりそうにありません。

これからも愚かで、なまけものの私を、どうか見守っていてください。

よろしくお願いいたします。

孔雀堂ものがたり

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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