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高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
1199年(正治元)8月、祈雨の効験のあった延杲(えんごう)僧正に対する嘉賞として、
翌年10月、後鳥羽上皇の発願によって落慶供養された高野山孔雀堂。
はたして、延杲僧正の祈雨法のすさまじい効験とは、どれほどのものだったのでしょう。
当時の天候については、藤原定家の日記『明月記』に記録されています。
正治元年の天候を見れば、延杲僧正がおこなった祈雨修法の効験のすさまじさが、一目瞭然!
1199年(正治元)6月の降雨は、18日の明け方から午後2時まで。
7月は、通り雨(夕立)が8日と12日にあり、10日に4時間ほど降っただけ。
それに対して朝廷は、6月30日から9日間にわたって、東寺二長者印性による神泉苑での読経をおこなっています。
7月16日に園城寺で祈雨の金剛童子法を修法し、同19日に神泉苑で祈雨法。
30日に神泉苑で読経などが実施されていますが、いずれも大きな験は得られずじまい。雨は降っていません。
そこで東寺一長者延杲僧正が満を持してあらわれ、 8月3日から神泉苑で雨を祈る「孔雀経法」を始めます。
するとどうでしょう。 修法して2日目の夜、少し雨があり、6、7日には待望の雨が降り出します。
結果として延杲僧正の孔雀経法による祈雨法は、成功裡に結願します。
ところがです。
その後も雨はやむことなく、8月24日には、止雨(雨を止める祈り)を複数の神社で行い、東大寺・興福寺・延暦寺において仁王経の読経を行う事態になります。
長い干ばつのために行った延杲僧正の祈雨修法のあと、かえって長期にわたって降り続いた大雨によって、延杲僧正の法力の偉大さが、恐怖をもって認識されたようです。
このような延杲僧正の霊力に対する驚きが、高野山金剛峯寺の孔雀堂建立となってあらわれたのです。
(参考文献:赤川一博「高野山金剛峯寺孔雀明王像」「仏教芸術」258号)
明月記(めいげつき)
藤原定家の日記。巻数不詳。漢文体。1180~1235年(治承4~嘉禎元)の公武間の関係、故実・和歌などの見聞を記したもので、鎌倉時代の史料として貴重。京都冷泉家の時雨亭文庫などに大量の自筆本が現存。照光記。
(「広辞苑」第7版)
神泉苑(しんせんえん)
平安京大内裏造営の際に創設された禁苑。京都市中京区に旧址があり、真言宗東寺派の直轄地。天皇の遊覧場であったが、空海がここに善女竜王を勧請(かんじょう)して雨乞いの修法をして以来、請雨の修法の道場となった。しんぜんえん。
(「広辞苑」第7版)
毎年8月、高野山孔雀堂で、浄行奉仕(おそうじ)をおこなっています。
1995年(平成7)、宝泉寺に入山してから毎年8月に大型バス一台を借り切って、孔雀堂の清掃奉仕に汗を流して、はや22年。毎年40名近く参加する「高野山おそうじ団参」は、自坊の恒例行事となりました。
バスの床下にぞうきん・たわし・モップなど清掃道具を積みこむ、一風変わった団参です。山上では、運転士さんもガイドさんも、みんないっしょに清掃奉仕です。
まず正面階段と縁側の泥をぬぐい去ったあと、一列に並んで緑色に変色した縁側の板を徹底的に磨きます。とくに日当たりの悪い西から北にかけて入念に仕上げます。班分けをして、短い時間でお堂の中も外も草ひきも、バッチリ!
10年ほど前まで、山王院・西塔・金堂・愛染堂もバリバリやっていましたが、還暦をとうに過ぎたベテランメンバーが多くなってまいりましたので、あまりムリせずぼちぼちと‥
高野山伽藍維那様はじめ、職員の方々に大変お世話になり、感謝にたえません。
ごいっしょに汗を流してくださる檀信徒のみなさま、ありがとうございます。
ピカピカに磨き上げたあと、みんなで般若心経をお唱えし、奉仕の悦びを分かちあって廻向して、終わりです。
生きとし生けるものが幸せでありますように
孔雀堂ものがたり