〒920-0836 金沢市子来町57
電話 076-252-3319
高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
↑ この写真はイメージです。「クリの木の墓」ではありません。
宝泉寺の墓所に、一風変わったお墓があります。
2005年(平成17)お亡くなりになった国本昭二さんのお墓です。たいていのお墓は、石材を用いて作るのですが、国本さんお墓は違います。クリの木で作られています。喪主をつとめられたMさん(奥様)のたっての願いで、当山墓所に国本昭二さんのお墓を建てられたものです。
住職が国本さんのお墓の建立に携わったので、当時のことどもを思い出して、ここに書き残しておきます。
旧サイトでも一度、同タイトルで投稿したことがあります。2006年12月だったかと思います。ここで、もとの文章を書き直して再投稿します。
ある日の夜、檀務をすませて自坊の駐車場まで戻ってきたとき、葬儀屋さんの姿がありました。
どなたがお亡くなりになったのかと尋ねると、国本昭二さんだというではないですか。あまりにも急なことで、本当に驚きました。
生前、国本さんは町会長として住民のために汗を流し、とくにゴミを出す日は、朝早くからマナーの徹底を呼びかけていたことを覚えています。
宝泉寺境内から眺める金沢の街並みをこよなく愛し、ここからの眺望を何度も新聞や雑誌に紹介してくださったものです。
たまたま法衣を着ていたので、そのままご自宅に直行。お経を唱えていると、思い出が走馬灯のように浮かびました。
お葬式が終わって、しばらくして、Mさんから電話がありました。
檀那寺の和尚さんが遠方のため、初七日から四十九日までのおまいりに来られないので、代理で拝んでほしいということでした。二つ返事で、おまいりにはせ参じたのはいうまでもありません。
居間の机の上には書籍や原稿などが山と積まれていました。故人はコラムニストだったこともあり、出版物の中に、遺言として発表した文章があるというのです。
1980年7月6日の北國新聞コラム「潮間帯」に昭二さんが執筆した「クリの木の墓」という一文が、それです。
クリの木の墓
父親の葬式を出した。肺ガンを手術して、三年目の死であった。
昭和四十七年以来、私は身内の葬式を四回出した。日に日に死期の迫ってくる身内を毎日見ているほど、悲惨で苦しいものはない。できるなら、看病の一つもで きなかったことを悔やみ、悲しみの涙をこぼす、外にいる身内になりたい。きれいに整えられ、棺に納められた安らかな死に顔を見る方がまだ楽だ。
しかし、四人の「死に至るまでの過程」を見つめて来てなにか「死に対する免疫」ができたような氣がする。
リン・ケインの体験記「未亡人」の中に、亡夫の写真に幾度もコブシを振り上げたという告白がある。
「将来に対する備えもしないで、なぜ私を未亡人にしたか」という怒りである。それは、死は当然やってくるものと肯定して、その手立てを確かに立てるべきだという思想である。亡父の写真に陰膳(かげぜん)を供えて、死んだことを悼み悲しむのは、死を認めようとしない否定の思想である。
死の免疫は、死の肯定につながる。それは血清のような働きをして、死をまともに正視できるようにする。死は突然、思いがけなくやって来るものではない。当然だれにでもやって来るものだ。
「縁起でもない」と忌みきらって逃げまわらないで、後に残るもののためにできるだけの手立てをしておくことだ。私はそれを死の肯定と呼ぶ。
そうだ、私も遺言しよう。
遺 言一、通夜は十時以後やってはいけない。連日の看病でみな疲れきっているのだから。
二、葬儀は三十分以上やってはいけない。このごろタタミに三十分も座れるものは少なく
なったのだから。三、私の墓はクリの木で作れ。私を知る人がこの世にいなくなったころ、その墓も朽ち果
てるだろうから。(1980年7月6日、北國新聞コラム「潮間帯」クリの木の墓)
文面を目で追いながら、Mさんが切り出しました。
「主人は『私の墓はクリの木で作れ。私を知る人がこの世にいなくなったころ、その墓も朽ち果てるだろうから』と遺言を残しています。生前、大好きだった宝泉寺に「クリの木の墓」を建ててあげたいのです。」
そう聞いて、住職は少し躊躇しました。
「墓地を管理する住職として、あまり変わったお墓は建てられません」
「ムリを承知でお願いします。クリの木のお墓が朽ち果てるまでで結構です」
そういわれると、断ることもできません。あくまでも故人の遺言を尊重して、クリの木のお墓が朽ち果てるまでお墓をお守りして、そのあとはお骨を供養塔に合祀するというお約束で承知しました。
国本昭二さんは、クジラの研究者としても知られていますが、本業は小中学校の数学教師でした。教え子をわが子のように愛されていたので、先生の自宅を訪ねる教え子がおおぜいいたそうです。
Mさんが教え子にお墓のことを相談したところ、美大に進んだ教え子が「数学の先生にふさわしいデザイン」を考案。お墓の図面を起こしたそうです。それをもとに石屋さんがさらにアレンジ。クリの木で作るお墓の設計図ができあがりました。
後日、お墓の設計図を携えた教え子さんが、Mさんといっしょに宝泉寺にやってきました。
「住職さん、こんなのいかがでしょう? どこにもない、素敵なデザインだと思います」
設計図をみせてもらって、ドキッ。
そのまんま、分度器と三角定規じゃないですか!
いくら数学の先生にふさわしいといっても、これはちょっと‥
住職が返答に困っていると、
それを察したMさんが、
「でもやっぱり、シンプルで‥」
この一言で、クリ木の素材を生かした「ふつうのカタチ(四角い形状)」に落ちつきました。
思わず胸をなで下ろしました。
設計デザインが決まれば、次は材木です。それがいくら探しても、肝心のクリの木を扱う材木店がありません。全国を探し回って、ようやく大阪に一軒。なんとかクリの木を仕入れることができました。
それから一年がかりで、材木を乾燥。乾燥を待つ間、檀那寺の和尚さんに「南無阿弥陀仏」を揮毫していただいて、それをクリの木に転写し、日展作家の教え子が彫刻。輪島塗の職人が漆をかけて仕上げるという念の入れよう。
こうしてりっぱなクリの木のお墓ができあがったのです。
墓碑の刻字は、正面に「南無阿弥陀佛 / 釋元亨」向かって左に「平成十八年十二月 國本○○」とあります。
国本昭二(くにもとしょうじ、1927〜2005)
1927(昭和2)年、江沼郡大聖寺町耳聞山(現加賀市大聖寺耳聞山町)に生まれる。金沢工業専門学校(現金沢大工学部)を卒業後、金沢市内の小・中学校で数学教師を務めた。「文化の中に潜む数学を探る会」代表として、教育、芸術、社会、日常生活など多用な分野で常識的な人間観を問い直した。また、金沢やロンドンの気象や坂、街並みなどを数学的思考をもとに分析し斬新な都市論を披瀝。数学誌「マァスブリッジ 数学にロマンを求めて」(1〜7号)を刊行した。日本海セトロジー(鯨学)研究グループにも加わり、「セトケンニューズレター」創刊号から16号までの編集をした。1984(昭和59)年に「山口記を歩く」で泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞、1994(平成6)年に金沢市文化活動賞、2000(平成12)年に北國文化賞を受賞。2005(平成17)年、77歳で死去。
著 書「物語のある風景 ロンドン」(1978年、開隆堂)、「山口記を歩く」(1984年、北國出版社)、「克己の河童」(1988年、北國出版社)、「四季こもごも ー 金沢の街と坂と卯辰山」(2004年、橋本確文堂)
お墓の建立を記念して、昭二さんが1967年(昭和42)から2000年(平成12)まで執筆した北國新聞の文化欄コラム「潮間帯」をとりまとめ、2006年12月に遺稿集が出版されることになりました。本の名前は、国本昭二遺稿集『クリの木の墓』。資料集めや編集作業は、すべてMさんがおこなったと聞いています。
夫を看取った後、コラムとして寄稿した中に、「クリの木の墓」について書いた文章があったことを、ふと思い出しました。二十年以上も前、「そうだ、遺言しよう」と筆を運んで、墓をクリの木で作るように記した一文です。どこまで本心だったのか、今となっては問い返すことはかないませんが、そう記した「遺言」を聞き届けようと思い、クリの木の墓を作ることを決めました。
事情を知らない人に、風変わりな墓について理解していただき、そう願って、当初はそのコラムが掲載された新聞のコピーを読んでいただければ、と思っていましたが、生前の夫の願いや周囲の方々の勧めもあり、連載したコラムを集めてまとめた次第です。
(中略)
あらためて「クリの木の墓」の文章を読み返しますと、さほど手間をかけずにできると本人は思っていたようですが、実際は、適当な木の確保やその乾燥などに、 意外なほどの時間と手間とを費やすことになりました。「遺言」も記されたこの本を、その墓前にささげたく思っています。
(国本昭二遺稿集『クリの木の墓』)
Mさんがしたためた巻頭言を読んで、目頭が熱くなりました。
Mさんは、昭二さんの遺言を聞き届けてクリの木でお墓を作って、その根拠となったコラムをとりまとめ、「国本昭二」というライフストリーの最終章を書き上げられたのです。
これこそが本当の「供養」であり、後に残された人が死別の悲嘆から自らを癒やすグリーフケアだと思いました。
謹んで国本昭二さんのご冥福をお祈り申し上げます。合掌