剣豪「名人越後」富田重政と摩利支天山 宝泉寺

「生摩利支天」といわれた男が、加賀藩に不敗の平法をもたらす。「名人越後」富田重政。金沢宝泉寺。

1606年(慶長11)、前田利長の御下知で富田重政は、金沢卯辰山に摩利支天堂を建立。山号を「摩利支天山」と称し、宝泉坊が別当をつかさどりました。これがいまの「摩利支天山宝泉寺」です。

富田重政と摩利支天を本尊にまつる宝泉寺との関わりについて解説します。

目次

中条流(ちゅうじょうりゅう)平法の達人、富田重政(とだしげまさ)

「名人越後」と称された富田重政

富田重政(「冨田」とも書きます)は、1564年(永禄7)〜 1625年(寛永2)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(生誕を1554年(天文2)とする説もあります)中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられました。

前田利家(まえだとしいえ)をはじめ、利長(としなが)、利常(としつね)の加賀藩主3代に仕えた重臣。越前に居をかまえた中条流名門の出で、前田家の剣術指南役(けんじゅつしなんやく)が何人もいた中で、名実そろったナンバー1といっても過言ではありません。

重政は、父は山崎弥三兵衛景邦(かげくに)。富田重政のもとの名は、山崎与六郎(のち六左衛門)だったそうです。幼少期に早くも抜きんでた剣の才を見せ、前田利家が府中三人衆となった1575年(天正3)11歳で、前田利家に100石で仕えています。その後、1584年(天正12)、同門だった中条流剣術中興の祖といわれる富田景政(かげまさ)の婿養子となりました。

中条流剣術とは、室町時代に中条長秀により創始された剣術や小太刀、槍術や組み打ちも含めた総合武術をいいます。

重政の義父・富田景政は、前田利家に仕え、関白豊臣秀次に剣術を指南したことでも知られています。残念ながらその子、与五郎は近江柳ケ瀬の合戦で討死。ほかは娘二人だけで男子がなかったので、門弟だった山崎与六郎(のちの富田重政)を婿に迎えます。

景政の兄・勢源(せいげん)も有名で、薪(まき)一本で真剣の相手を倒したという逸話を持つ小太刀(こだち)の達人。本来ならば、富田家を継ぐはずだったのですが、眼病(または耳の病気)を患い、弟に跡目を譲っています。

ともあれ富田家が流れをくむ中条流は、日本剣術の三代流祖の一つ。ことに小太刀術の〝生みの親〞といわれており、当然ながら富田家も小太刀が得意でした。

将軍家の剣術指南を上回る石高

富田家の家督を継いだ重政は、末森城(すえもりじょう)の戦いや小田原の北条攻めに従軍。次々と武功を立て、文禄(1593〜96)の頃、義父の富田景政が没した際に遺領の3,400石を継ぎます。

次いで1597年(慶長元)大夫(たいふ)となり、従五位下下野守(じゅうごいげしもつけのかみ)に叙任され、のちに「越後守(えちごのかみ)」と改めました。

1959年(慶長4)、徳川家康が病床の前田利家を見舞っており、重政・山崎内匠(たくみ)・山崎次郎兵衛の前田家家臣3人が刀術を見せています。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いにおいても、重政は北陸戦線で輜重隊(しちょうたい=軍需品の輸送隊)を率いて奮戦。

また同年、大聖寺城攻めや小松の浅井畷(なわて)の戦いでも戦功をあげ、13,670石を与えられ、重政は晴れて人持組の一員となります。金沢城の新丸に屋敷が与えられ、その場所は後々まで「越後屋敷(えちごやしき)」と呼ばれて使用され続けます

これは剣術指南役としては破格の禄高であり、まさにその扱いは別格。ちなみに当時、諸藩の剣術指南役はほぼ、300石以下だったといわれています。

天下の徳川将軍家の剣術指南役であった柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)ですらが、12,500石であったことを思えば、重政の家禄の高さに驚くばかりです。

金沢城の越後屋敷

金沢城の北側に大手門「尾坂門」がありました。金沢城の正門に当たる場所ですね。いまは門や櫓(やぐら)もなく、ただ石垣が残っています。

現在このあたり一帯は、「新丸広場」と呼ばれ、広大な芝生がひろがっています。なんと新丸広場は、金沢城の三分の一を占める広さだそうです。

江戸時代初期、金沢城新丸の東側に「名人越後」富田重政の邸宅があり、「名人越後」にちなんで、「越後屋敷」と称されました。

新丸広場に立つと、重政が藩主からどれほど信頼されていたかをいっそう深く認識することができます。

金沢城新丸「越後屋敷」(富田重政の邸宅)
金沢城新丸「越後屋敷」(富田重政の邸宅)

金沢城址は明治以降、陸軍の「第9師団司令部」の施設として転用され、新丸には「第7歩兵連隊」の兵舎が置かれていたそうです。戦後は(1949年〜1995年)まで、金沢大学のキャンパスとして用いられています。

けっきょく重政は、前田利家・利長・利常の三代にわたって重臣として仕え、剣術はいうまでもなく平法者として高名であったので、たいへん厚遇されたのです。

金沢卯辰山に摩利支天堂を建立、「摩利支天山」と号す。
宝泉坊が別当をつかさどる。〈摩利支天山 宝泉寺〉

摩利支天山宝泉寺のおこり

1606年(慶長11)、前田利長の御下知で重政は、金沢卯辰山に摩利支天堂を建立。山号を「摩利支天山」と称し、宝泉坊が別当をつかさどりますこれがいまの摩利支天山宝泉寺です。

金沢城と宝泉寺は、浅野川をはさんでほぼ同じ高さにあり、宝泉寺の境内から城下が一望できます。またここは金沢城の鬼門(北東の方角)にも位置します。万が一ここを敵に占拠されたらたいへんです。なんとしてもこの要所をおさえておかなければなりません。そこで摩利支天です。

お城の急所ともいえる大切な箇所を封鎖する目的で、前田利常の御下知を受けた富田重政が摩利支天堂を建立。この要所に別当として宝泉坊がとどまり住んで、摩利支尊天を供養するために読経し、護摩を焚き、願主の目的に応じた加持祈祷などをつかさどってきました。

それがそのまま400年の時を超え、「摩利支天山宝泉寺」として、いまにいたっているのです。

宝泉寺には、前田利家公(秘仏)摩利支尊天のほか、「名人越後」富田重政や「中風越後」富田重康の摩利支尊天など、加賀藩に‶不敗の平法″をもたらした中条流平法ゆかりの尊像が複数伝わっています。

これら摩利支尊天を前に端座すると、中条流の達人の見参に入るようで、畏敬の念を禁じ得ません。

加賀藩に不敗の平法をもたらした中条流ゆかりの古刹、摩利支天山宝泉寺。

摩利支天山宝泉寺の略縁起

大坂の陣、出陣!

重政は、1613年(慶長18)に、いったん隠居しますが、大坂の陣に二度従軍するなど、その活躍は止まりません。

冬の陣では、前田家第3軍の将として夜間に出陣しています。突如、敵弾がはじけ、行列がパニックになります。

そのときです。右手にロウソクを持って、片手で手綱を持って、重政は馬を乗り回し、みごと軍兵をしずめてみせました。これぞまさしく剣で培った平常心討ちとった敵の首は19級。

摩利支天のようにおわす

将兵は軍神「摩利支天」のように、この達人「名人越後」重政をふり仰いだのです。

重政は、1625年(寛永2)、静かにこの世を去りました。享年は62と伝えられています。(享年を72とする説もあります)

「名人越後」エピソード1

無刀取り(むとうどり)

あるときのことです。
三代前田利常が、茶室で無理難題を重政にふっかけます。

なんじの家に『無刀取りの術』があるという。ではこれを取ってみよ。」

そういって利常は、突然、真剣を抜き出します。重政はあわてることなく、つつしんでうけたまわります。

無刀取りの術はわが家の秘密。後ろの戸の隙間から人が覗いていますので、これを制してくだされば、御意に従いましょう。

それを聞いた利常が、誰が覗いているのか、後ろを振り向いた瞬間。
重政がすっと利常のそばに寄って、利常の拳をガッツリにぎって、一言。

我が家の『無刀取』というのは、こういうものです。

これにはさすがの利常も、しみじみ感じ入りました。名君と名高い利常と重政の信頼関係がうかがえる逸話です。

しかしです。それだけではありません。この『無刀取り』の中に、中条流平法の極意が秘められています。

それは‥ 戦わないことすなわち「不敗」です。

前田利常がイメージした「無刀取り」は、素手で刀を取る「真剣白刃取り」だったのでしょうか。

本来の「無刀取り」は、必ずしも相手の刀を取らなければならないものではなく、自分が無刀の折に、相手を制する技でありました。

中条流平法の本意

富田重政には、数々の軍功は伝えられるものの、派手な試合の話はあまり聞きません。

というのは中条流は、もともと試合が遺恨となるからとして禁じていて、重政はその教えを忠実に守っていたからだといわれています。

名人越後の名前が伝えられながら、その名人技が伝えられないのは、重政が大身(たいしん)であり、剣法を誇る必要がなかったからです。

名人越後は、「隠形を第一とする摩利支天の誓願を自ら実践した」といえるかもしれませんね。

そしてなによりも前田家は、利常の頃から幕府への遠慮のため、武を表に出さないようにしていたためです。

中条流の基本は「柔よく剛を制す小太刀の技にありました。「柔よく剛を制す」とは、しなやかで柔らかいものが強く硬いものを制すること。 転じて、小さな弱い者が大きな強者を打ち負かすことを意味します。

またその技は「平法(へいほう)」と呼ばれ、武の威徳によって災いを未然に防ぐことが本意とされました。

ようするに戦の場のみならず、日常生活における災いをいかにして未然に防ぐかということです。

この流意は加賀前田家の家風に叶い、そのため江戸時代を通して、加賀のみならず、北陸各藩で大いに栄えました。

名人越後(重政)の登場で、富田家の剣法は「富田流」と呼ばれるようになりましたが、富田家では代々正式には「中条流」を名乗ったようです。いずれにせよ名人越後の剣法は、あくまでも平法として平時の威徳を説きながら、その奥義には太刀・槍・長刀・取手(捕り手)など多彩な技が伝えられています。

これもまた「利口を鼻先に顕さず」とした加賀前田家三代利常の理念の影響が感じとれます。

「名人越後のエピソード」2

ヒゲそり

また名人越後らしい話に次のようなものがあります。

ある日重政が、家人(けにん)にヒゲを剃らせていました。

家人は、(いま刺したら、いかに名人の主人でも一突きだろう)と思いました。

重政は家人の顔色をじっと見て、

「その方の顔色はただごとではないが、いま心のなかで考えている事を実効する勇気はあるまい」

と言ったので、

家人は縮みあがったということです。

鍛え上げた武の威徳によって、災いを未然に防ぐ「平法」を本意とした重政にふさわしい逸話ですね。

「名人越後」重政のあと(富田家の武将たち)

長男の富田重家(とだしげいえ)は、加賀藩の軍団長である人持組頭をつとめ、10,600石と大名並みの石高を誇りました。正室は加賀藩の藩祖・前田利家の孫娘にあたります。

大坂冬の陣・夏の陣で手柄を立て、二代藩主・前田利常から感状を与えられるなど前途洋々でありましたが、1618年(元和4)24歳の若さで他界しています。

そのため弟の重康(しげやす)が、跡を継いで、金沢城内の越後屋敷に居住します。

重康越後守(えちごのかみ)」を称した中条流の達人。のちに中風を患ってもなお強く、中風越後(ちゅうふうえちご)として恐れられました。

「名人越後のエピソード」3

主計町(かずえまち)の由来

ちなみに、金沢にある茶屋街の一つに「主計町(かずえまち)」があります。

その地名は、江戸時代、この主計町がある一帯に、富田重政の三男・主計(かずえ)宗高(むねたか=幼名は重家)の屋敷があったことに由来しています。

そうなんですね。中条流平法の摩利支天をおまつりする宝泉寺とは、浅からぬご縁があるのです。

宝泉寺から子来坂を経て、ひがし茶屋街、主計町茶屋街へ足を運んでみてください。昔ながらの風情のある街歩きが楽しめます。このあたり一帯は、自坊を含め、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

冬の主計町茶屋階
「冬の主計町茶屋街」(写真提供:金沢市)

現代社会という「戦場」で日々奮闘する戦士の心得

自己をどこまでも主張し、自分を押し通すやり方があります。

その一方で、能ある鷹は爪を隠す。コツコツと蓄えた能力を表に出さず、つつましく生きる。そしていざというとき、持てる能力をフルに発揮する‥ そういう身の振り方もあります。中条流の平法に通じる行き方です。

現代社会という「戦場」で日々奮闘する戦士の心得の一つとして、アタマの片隅にとどめておいてよいかもしれません。

南無摩利支尊天

イノシシといえば‥ 摩利支天。金沢、宝泉寺!
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