〒920-0836 金沢市子来町57
電話 076-252-3319
高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
40年以上にわたって、宝泉寺の総代をつとめてくださった米田勝さん(83)がお亡くなりになりました。
大きな身体で、いつもニコニコ。誰からも信頼される米田さんでした。長い間、お世話になり、ありがとうございました。
春、秋の大祭のとき、本堂前に必ず立てる幟(ノボリ)が一つあります。
米田さんが20代のころ、心願成就を願って、摩利支天に奉納した幟です。
真っ赤な麻地に寺紋(宝泉寺のマーク)を配し、「心願成就 粟崎 米田勝と白く染め抜かれています。
風を受けて大空に舞う姿は、まことに勇壮です。
長きにわたって、宝泉寺の総代として、寺の護持に尽力してくださいました。
春と秋の大祭には、いつも受付を担当してくださっていました。
毎年正月は寺に泊まって、壇信徒のお世話をしておられましたね。
80歳で会社をたたまれたとき、総代を退任。後進に道を譲られました。
米田さんの手にかかる品々が宝泉寺と参拝者を守っています。
本堂を雪囲いするにあたって、雪よけの簾を取り付ける骨組みとなる鉄柱と、それらを取り付けるための金具を一から作ってくださいました。亜鉛メッキ。
長時間護摩修法を続けると、護摩壇の両脇から火が吹き出します。
長谷川時夫さんと知恵を出しあって、天板の裏にステーを組んで、出火をおさえてくれました。
防護ガード付きのお賽銭箱を製作していただきました。すばらしいアイデアです。
2005年(平成17)落成した宝泉寺庫裏から、墓地へと至る崖地に設けられた階段に防護柵を製作。亜鉛メッキをほどこしたうえ、米田さん自らが搬入。取り付けてくださいました。
2011年3月20日ころから、足しげく通った南三陸町。被災地支援のため、現地にプレハブを建て、「寺子屋こうやくん」と命名しました。
現地のニーズで室内を拡張したところ、雨もり発生。屋根の上に屋根をのせることになり、室内に柱を二本追加することとになりました。柱となる角材を入手できても、天井と床で柱を固定する金具は一から作らなければなりません。急きょ、米田さんにムリをお願いして金具を4つ特注。
おかげさまをもちまして、スムーズに屋根をのせられ、雨もりをクリアできました。現場作業の指導は、長谷川時夫さんでした。
あらためて米田さん手作りの品々をみると、既製品は一つもありません。
米田さん自ら図面をひいて、鉄を加工して、作りあげた特注品ばかりです。
長谷川さんと米田さん、見事なチームワークでした。ともに責任感の強いお方でした。
困っていると、すぐさま対応してくださる、スーパーマンのような人。それが米田さんでした。
物心ともどもお世話いただき、心より感謝申しあげます。
米田さんの訃報を告げる記事が掲載されていました。
「打撃の達人」米田さん逝く
国内最速マシン 240㌔軽々
バッティングセンターで国内最速とされる240キロの球を打ち返し、「打撃の達人」の愛称で、たびたび北國新聞に記事が掲載された内灘町粟崎2丁目の米田勝さん(83)が22日、入院先の金沢医科大病院で亡くなった。「自分が頑張っている姿を見せ、同世代に勇気を与えたい」。目標を見つけてひた向きに取り組む米田さんの姿は、周囲に元気を届け続けてきた。
内灘・83歳 同世代に元気届け
米田さんは2019年12月29日、北九州三萩野バッティングセンターで、球速240㌔を誇るセンターの名物ピッチングマシンから繰り出される速球を軽快に打ち返し、周囲の客から喝采を浴びた。
長女の歩田晴美さん(56)によると、これが米田さんの最後のスイングになったという。昨年は新型コロナウイルスの感染拡大により、米田さんも出歩くのを控えるようになった。
晴美さんは「『コロナが収まったら、またバッティングセンター行きたいね』と楽しみにしていたんです」と振り返り、「ひ孫の瑠空(りく)ちゃん(1)ともいつか一緒に行ければ」と父が話していたことを思い出した。
米田さんは65歳の時、バッティングセンターに通い始め、200キロ以上のスピードボールを求め、県外まで遠征するほどだった。80歳までは鉄工会社の社長を務め、出先の大阪から新幹線で北九州市まで乗り継ぎ、約600球を打って帰ることもあった。
その姿は「72歳フルスイング 230キロはじき返す」(09年12月29日付朝刊)、「240キロの球を打つ 打撃の達人進化」(16年6月16日付)、「世界最速240キロ打つ ギネスに挑戦」(18年12月29日付)とたびたび本紙に掲載されてきた。
棺に本紙
23日帰宅で納棺の際には、米田さんが掲載された北國新聞の紙面も一緒に収められた。
目標を見つけ、達成に向かって取り組むのが好きで負けず嫌いだった米田さん。新聞などの報道を通じて、元気づけられたという県内や県外の人から「力をもらいました。ありがとう」とお礼が送られてくることもあった。
長男の陽一さん(54)は米田さんが愛用していたバットやヘルメットを手に取り、「天国でも目標を見つけ友達と楽しくやっていくだろう」と話した。
(『北國新聞』2021年1月24日)
やはり、米田さんといえば、バッティングセンターです。
新聞やテレビの取材を受けるたび、住職に教えてくれた米田さん。
ギネスにも挑戦したいと、おっしゃっていましたね。
2011年5月8日、福岡県三萩野バッティングセンターで230キロの剛速球を打ち返えす米田勝さん(73歳)。
ギャー
命のキケンを感じる
超、豪速球!
黙々と球を打ち続ける姿は、
求道者のよう..
「球筋が見えるんです。ある先生に『F1レーサーなみの動体視力がある』といわれました。」
ほんとうにボールが見えているんですね。
視力がずば抜けているというか、モノを見通す力が人を越えていたようです。
もう一つあります。永年鉄工業で鍛え上あげたカラダとスタミナです。
一人トラックで和歌山へ依頼品をおさめた帰途、大阪のバッティングセンターに立ち寄って500〜600発打って、金沢に帰ってこられてましたね。そのパワーの源はなんですか?
「バナナです。練習前に2本食べるんです。疲れず、いくらでも打てます。」
「住職、疲れたら、バナナですよ!」
目標を見つけ、達成に向かって取り組むには、物事を直視する力を磨き続けること。そして疲れたら、バナナ!
ためになることを、たくさん教えていただきました。
米田さん、ありがとうございました。
おまいりに来られるたび、手を合わせ、般若心経の太鼓のリズムにのって、大きな身体をゆさぶって拝んでおられたお姿が彷彿としてよみがえります。
米田さんのご冥福を心よりお祈り申しあげます。
合掌