〒920-0836 金沢市子来町57
電話 076-252-3319
高野山真言宗 宝泉寺
通称「五本松」(ごほんまつ)
\ 宝泉寺は、ココ! /
「納骨堂の名前考えて」
「還源庵!(げんげんあん)」
「いいね。 看板の字も書いて」
「わかった」
わずか数分で決まりました。
一年半くらい前だったかな?
鹿児島の法友、小牟田さん(法城院住職)からメールがあって、
新しい建立されるお堂の命名と看板の揮ごうを頼まれました。
還源庵
文字の由来は、空海さまのお言葉。
晩年に空海さまが、若き日の自分を振り返り、唐に渡る前の状況や心情を述べたご文章があります。
弘法大師『性霊集』巻第七 「四恩のおんために二部の大曼荼羅を造る願文」の一節です。
性薫我を勧めて還源を思いとす
(しょうくんわれをすすめてげんげんをおもいとす)経路未だ知らず。岐に臨んで幾たびか泣く
弘法大師『性霊集』巻第七 「四恩のおんために二部の大曼荼羅を造る願文」
(けいろいまだしらず。ちまたにのぞんでいくたびかなく)
現代語訳
私のカラダのなかにもとからいらっしゃる仏さまの心がムクムクと動き出し、しきりに本源に還りたいという思いが強くなってきた。
だけどどの道に進むべきか、まるでわからない。分かれ道を目の前にして、どれほど泣いたことか。
「性薫(しょうくん)」は、誰にでも備わっている本来の仏さまの心をあらわします。「還源(げんげん)」は、本源に還るという意味。「岐(ちまた)」は、分かれ道のことです。
空海さまのなかにいらっしゃる仏さまの心が、若かりし空海さまに対して、澄んだ悟りの世界に還ろうと勧めるけれど、その道がわからない。それで幾たびも泣かれたというのです。
精誠感有って此の秘門を得たり
(せいせいかんあってこのひもんをえたり)文に臨んで心昏うして、赤縣を尋ねんことを願う
弘法大師『性霊集』巻第七 「四恩のおんために二部の大曼荼羅を造る願文」
(もんにのぞんでこころくろうして、ねがってせきけんをたずねんことをねがう)
現代語訳
そのような私のまごころが通じたのであろう。この深くてすぐれた密教に出会うことができた。
お経をひもといて読んでみたけれどわからない。私の疑問に答えてくれる人もなく、核心に触れることができなかった。それで唐に渡って、長安で密教に明るい師について学びを深めたいという願いを強く持つようになった。
当時、すでに多くの密教経典が輸入されていましたが、系統だって持ち込まれたものではなく、密教という概念すら希薄だったとか。ましてや密教の経典をひも解き、内容をよく理解し、説かれた法を実践できる人は、まだ日本にはいませんでした。
進むべき道は、密教だとはわかっていても、にっちもさっちも行かない。空海さまの心中いかばかりかと想像いたします。居ても立っても居られず、法を求めて、空海さまは入唐を決意されたのです。
人の願い天順いたもうて、大唐に入ることを得たり
弘法大師『性霊集』巻第七 「四恩のおんために二部の大曼荼羅を造る願文」
ひとのねがいにてんしたがいたもうて、だいとうにいることをえたり)
現代語訳
こんな私の願いを天(仏さま=大日如来さま)は聞きとどけてくださり、長安を訪れることができたんだ! やったー
そして念願成就。空海さまが入唐したのは、延暦二十三年(804)、三十一歳のときでした。
「還源を思いとなす」というキーワード。
還源とは、本源に還ること。迷いない仏さまのおさとりの世界に還る。
すなわちさとりを得るということです。
源は遠くのどこかにあるのではなく、本からここにある、自分自心を深くふかく探求すること。
かけがえのない自分のなかに、本からド〜ンと座っている仏さまを見い出すこと。
幸いにも密教には、本源に還る手法がたくさんあります。
自分自心の仏さまと再会するために、さずかったやり方で問い続けていくのです。
及ばずながら自心の根底にいます仏さまを照らす護摩の光を消さぬようつとめたいと思っています。
小牟田さんから法城院納骨堂の話を聞かされたとき、恐れ多くも「還源」という文字が眼前に浮かびました。
納骨堂が「たましいのふるさと」として、末長く鹿児島の皆様に活用されることを願って、空海さまのお言葉を使わせていただきました。
りっぱな納骨堂ができるまで
たいへんやったやろなぁ〜
落慶おめでとう!
ちょっとだけお手伝いできて、
うれしかったよ
声かけてくれてありがとー
空海さまのご文章から
文字を選んだし、
空海さまの書風で
とはおもったけれど…
書き散らかしただけ
紅星牌二層夾宣
30年ぶりじゃない?
気合い入ってんなー
まりちゃん、 よう見とるなぁ