摩利支天と忍者

2014年、北陸大学の武田幸男教授(地域連携センター長)と学生が、当山本堂に忍者の人形を設置されました。それ以来、「摩利支天と忍者は、どんな関係があるの?」と、尋ねられることが少なくありません。

そこでさしあたって、摩利支天と忍者の関係について調べてみました。あくまでも推察の域を出ませんが、少し紹介させていただきます。

金沢摩利支天
摩利支天と忍者
目次

姿を隠して、見えなくする摩利支天

摩利支天は、陽炎(カゲロウ)を神格化した仏教の守護神です。

そもそも摩利支天は光がひらめく陽炎ですから、それを捉えることも捕まえることもできません。敵の目にも見えません。だから倒されず、傷つけられず、自在の力をあやつって、勝利をおさめてしまうのです。まさに、摩利支天がもつ「隠形(オンギョウ)」というご利益のなすところです。摩利支天の隠形とは、真言と印契の力をもって、自分の姿を隠して見えなくしてしまうことをいいます。

日本では、摩利支天は古くから武将の戦勝の神として信仰され、いざ出陣のとき、兜や鎧の中にお守りとしてひそませて戦にのぞんだといわれています。その一人が、加賀藩主の前田利家公です。

当山には、前田利家公の守り本尊である秘仏摩利支天をおまつりするほか、加賀藩の剣術指南であった富田重政や富田重康の護身仏であった摩利支天をも伝存するところから、北陸随一の「摩利支天霊場」として信仰を集めています。

摩利支天を説く経典

釈道の守護神摩利支天は、梵語で陽炎の意である。春の野辺にもえたつかげろうは、その形相、見ることができず手にとることも叶わない。

「天アリ摩利支と名ヅク。常ニ日ノ前ニ在ッテ行き、シカモ日ハ彼ヲ見ズ、彼能ク日ヲ見ル」という「摩利支提婆華鬘経」の章句は、陽炎をもって人格神に具象した古代印度人の美しい想像力を偲ばせる。

その姿は天女に象どり、頭には瓔珞の冠を頂き、左手に天扇を持ち、右手は下へ垂れて掌を外へむけ、五指をのべて与願の勢をなし、しかもその姿は人には見えない。ただ摩利支天のみ人を見ることができる。

これを祈念すれば、余人に知見せられることなく、余人に束縛されることなく、しかも王難、賊難、行路難、水火難、刀兵軍陣難、毒薬難、毒虫難、一切の怨衆悪人難などの諸悪をまぬがれ、失道曠野の中においてこの天はその人を守護して捨てず必ず危窮を免れしめるという。

いかにも伊賀甲賀の忍者にふさわしい守護神である。自然、かれらにひろく信依されていた。


(司馬遼太郎「梟の城」)

摩利支天
仏教の守護神である摩利支天は、サンスクリット語で「陽炎(かげろう)」の意。春の野辺にもえたつ陽炎は、その形相を見ることができず、手にとることもかなわない。

「天(女)あり。摩利支と名づく。常に日天の前に行く。日天は摩利支天を見ることなく、摩利支天はよく日天を見る」という「摩利支提婆華鬘経」の章句は、陽炎をもって人格神に具象した古代印度人の美しい想像力を偲ばせる。

その姿は、天女に象どられ、頭には瓔珞の冠をいただく。左手に天扇を持ち、右手は下へ垂れて掌を外へむけ、五指をのべて与願の勢をなす。しかもその姿は人には見えない。ただ摩利支天のみ人を見ることができる。

この摩利支天を祈念すれば、余人に知見せられることはない。また余人に束縛されることなく、しかもさまざまな災難が身に降りかかろうとも、摩利支天は人を守護して、見捨てることもない。だから絶体絶命の窮地に追い込まれることを免れるというのである

大塔宮尊雲親王の隠形

大般若経の唐櫃に身を隠す大塔宮護良親王
大般若経の唐櫃に身を隠す大塔宮護良親王

元弘の乱後、征夷大将軍として活躍した大塔宮護良親王(おおとおうにみやもりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)は、やがて足利尊氏と対立し追われて熊野へ逃げる途中、奈良の般若寺に立ち寄りました。

そこへ足利方についた一乗院の好専が、百余騎の軍勢を率いて寺内の探索にきました。

とっさに身の危険を感じた大塔宮は、仏殿に入り、フタが開いていた『大般若経』 の唐櫃に潜り込み、摩利支天の印言を結誦。すばやく身を隠します。

追っ手の兵たちは、フタの閉じてある方の唐櫃を点検し、「大般若の櫃も中をよくよく捜したれば、大塔宮は居らせ給はで、大唐の玄奘三蔵こそおはしけ」と言って引き上げて行きました。

まさに護良親王の命拾いは、摩利支天尊の隠形の加護によるものです。

まりちゃん

護良親王の命拾いは、
摩利支天尊の隠形の加護!

まりちゃん

敵に見つかる恐怖心に打ち勝つため、
摩利支天の真言を口の中で唱え、呼吸を調え、
精神を集中させていたんだね。

忍術の秘伝書「万川集海」にみる、大塔宮尊雲親王の隠形

大塔宮尊雲親王が南都の般若寺に潜に隠れていた時、一乗院の候人の按察法眼好専(あぜちほうげんこうせん)が如何にして聞き付けたのか、五百余騎を率いて未明に般若寺に押し寄せてきた。

運悪く、宮側の味方は一人も居なかったので一防ぎして逃げ落ちる術もなく、その上、隙間もないほど兵が境内に討入っていたので出る事も出来ず。

もはやこれまで、と自害すべく帯上の衣服を脱いだ。

考えて見ると、叶わないから腹をきるのでは余りにも簡単がすぎる。

よし隠れてみよう、と思って引き返して仏殿内を見渡すと、読みかけの大般若の唐櫃〔六本脚の唐風櫃〕が三つあった。二つの櫃はまだ蓋を閉じたままで、残りの一つは御経の半分過ぎを取出して蓋が開いていた。

親王は蓋が開いていた櫃の中に小さくなって隠れ、その上に御経を引っかけて隠形の呪を心の中で唱えた。

見付かったらすぐに腹を切ろうと思い、氷のような刀を抜いて腹に刺し当てて、兵共の「見付けたぞ」の一言を覚悟していた。

兵は仏殿に乱入して仏殿の下、天井の上までも隅々まで捜し尽くした。終に「あの大般若の櫃が怪しい。

開いて見よう」と言って蓋をしていた二つの櫃を開いて御経を取出し、底を翻したが宮は入っていなかった。

不思議と命が続くものである。

夢に道行の心地がして、なおも櫃の中でじっとしていたが、また兵共が引き返して詳しく捜すかも知れないと思って、前に捜した櫃に移り換えて隠れていた。

案の定、兵共がまた来て仏殿に上り、先に蓋を開いた櫃は見去って、この蓋が開いている櫃は捜した覚えがないぞと言って中の御経を皆取出した。

突然、兵共はからからと笑って、「大塔宮ではなくて、大唐の玄奘三蔵がおられた」と戯れ、兵共は皆一同に笑って門外に出て行ったという。

(「万川集海」巻第十三)

万川集海(まんせんしゅうかい)
忍者が用いる術や道具などを記した忍術書である。そのうちもっとも有名な書物が「万川集海」である。全22巻からなるこの忍術書は、1676年に伊賀忍者だった藤林長門(ふじばやしながと)の子孫、藤林保武(やすたけ)が著したとされる。伊賀・甲賀や諸流のすべての忍術を、あたかもいくつもの川が海に流れ込むかのように集大成したものであるというのが、書名の由来である。

忍者も崇敬した摩利支天

忍者もまた、摩利支天をひそかに崇敬していたことが知られています。

忍者の最重要任務は、相手の情報を獲得し、それを持ち帰ることです。したがって一番大切なことは、生きて生きて生き抜くことです。そのために決して命を落とさず、戦いを避け、逃げるを恥としないことであったと考えられています。

もっとも忍者は、極秘裏に活動し、その名を残しません。それ故に、史料が多いわけではなく、忍者が摩利支天をどのように信仰したかは想像の域をでないのが残念です。

しかしながら忍びとして生きる者が、自らの姿を見られなくする「隠形」の功徳を第一とする摩利支天を尊崇したことは、当然ではないかと指摘されれば、当然であると同意するにやぶさかではありません。

そこでここでは、かつて「忍豪作家」と呼ばれた司馬遼太郎の作品を参考にして、忍者がどのようなかたちで摩利支天を崇敬していたのかを見てゆきたいと思います。

司馬遼太郎の忍者小説①「梟の城」

1958年(昭和33)9月、日刊宗教紙「中外日報」に連載した「梟のいる都城」の改題し、講談社より刊行。昭和35年第42回直木賞受賞作品。豊臣秀吉の命を狙う伊賀忍者、葛篭重蔵を主役に据え、忍者の世界から抜け出そうとする石川五右衛門との対決。女忍者との許されぬ恋、宿敵である甲賀忍者との凄まじい死闘を描く名作です。

司馬遼太郎「梟の城」
〈あらすじ〉
信長の伊賀討滅作戦で家族を失った葛籠(つづら)重蔵は、まだ30代なのに隠遁生活を送っていた。そんな彼に、10年ぶりに伊賀の里から声がかかった。かつての師匠、下柘植(しもつげ)次郎左衛門の呼び出しだった。命令は忍者仕事への復帰。具体的には太閤秀吉の暗殺だった。兄弟子、風間五平が出奔し行方不明になっちることも知らされる。

重蔵は仕事の依頼主である堺の茶人、今井宗久(いまいそうきゅう)の元に急ぐ。旅の途中で小萩と名乗る遊女を買った。実はこの女、宗久の養女で怪しい振る舞いをしている。

一方、五平はというと京都奉行、前田玄以(げんい)の配下になって、侍として表舞台に立とうとしていた。それは忍者としての影の人生を捨てることであり、当然、掟破りだった。そんな五平は次郎左衛門の娘で、女忍者木猿をも手下にしていた。

天下騒乱の巷、京の町を背景に、同門忍者同士の秘術を尽くした戦いが始まる。

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摩利支天が「隠形の守護神」とされるのは、摩利支天が常に太陽の前を行くからです。太陽のまぶしさが、その姿を隠すのです。それゆえに人は摩利支天を見ることも、知ることも、その他いかなる干渉もできません。

そうした功徳を持ち合わせた守護神ですから、摩利支天の加護を得ることができるなら、加護を得た人もまた同様の功徳が得られると、お経には説かれています。

戦国武将はいうまでもなく、忍者たちも、摩利支天のこの「隠形」の力を期待し、念持仏として身に付けて、身を隠す方術や、さまざまな呪法を実践したようです。

いかにも摩利支天は、伊賀甲賀の忍者にふさわしい守護神であることが知られ、おのずと忍者に広く信じ、拠り所とされていたことがわかります。

「摩利支天」の異名をもつ忍者

玄以が待っている男には、摩利支天の異名がついている。この異名は伊賀忍者のあいだでは類似のものがなく、ただ甲賀忍者の仲間にかぎって用い、それもなまなかな術者には与えられなかった。

一郷一代一人という不文律があり、いわば卓抜した術者にのみ仲間が授ける称号のようなものであったらしい。

さきにのべたように、摩利支天は梵語でかげろうのことである。

陽炎のごとく人に見えず手に取れず、摩利支天のごとく諸難を払いのける玄妙な通力をもつというところからその異称が来た。

(司馬遼太郎「梟の城」)

甲賀忍者の仲間にかぎって、なまなかなでない術者に「摩利支天」の称号が与えられた。一郷一代一人という不文律があり、卓抜した術者の仲間が授ける称号のようなものであったらしい。最高の術者が、摩利支天そのものとして、仲間から崇められたということは、当時の忍者たちに摩利支天が広く信仰されていた証拠ではないでしょうか。

司馬遼太郎の忍者小説②「最後の伊賀者」

昭和35年11月、文芸春秋社より刊行。驚異的技能と凄じい職業意識をもつ怪人たち、伊賀忍者はいかにしてつくられどのように生きたか。城取り、後方攪乱、探索密偵等、戦国の武器として使いちらされた危険な傭兵。詐略と非情の上に成り立つ苛酷な働きが、歴史の動きに影響を与えた不思義な人間たちを自在に描く短編作品。文庫本のカバーには、甲賀伊賀忍者が崇敬した摩利支天像があしらわれています。

司馬遼太郎「最後の伊賀者」
〈あらすじ〉
江戸幕府が開かれ、家康の重臣たちも江戸住まいを始めた。徳川政権の影の立て役者、服部半蔵の家督を継いだ服部石見守正就(いわみのかみまさなり)が麹町半蔵門前の屋敷でくつろいでいる。床の間の椿の一輪が美しい。だが、正就がふと気をそらした瞬間、椿の花は刃物で断たれ、畳の上に転がっていた。忍者の仕業か?

今は亡き半蔵の弟子、ヒダリこと野島平内は、修業も何もしないで伊賀同心の頭目となり、自分たちに無理な土木工事をおしつけてくる正就が許せない。最後の伊賀者の意地が今、炸裂しようとしていた。

 子の刻、寺のなかから一流の白い旗がひるがえった。旗には「南無」とのみ墨書され、その下に、伊賀甲賀の者が崇尊する摩利支天の像がえがかれていた。旗竿を、一旗の墓石が背負っていた。

墓石には、安誉西念大禅定門と法名が銘記され、側面に、三州住人服部石州五十五歳と刻まれていた。服部大半蔵がそこにいた。伊賀者の旗を背負って、ひえびえと立っていた。

(司馬遼太郎「最後の伊賀者」)
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伊賀忍者も甲賀忍者も尊崇した摩利支天

伊賀忍者も、甲賀忍者も、摩利支天を崇尊し、なかでも伊賀者の旗印は、白い旗に「南無」と墨書し、その下に摩利支天の像が描かれていたとあります。

最後の伊賀者
司馬遼太郎「最後の伊賀者」講談社文庫(表紙)

イノシシの習性に学ぶ、ドロ臭さ

イノシシ 金沢 摩利支天
ドロにまみえる隠形の極意
ドロにまみえる

イノシシの習性として、泥の中にころがり、身体に泥水を塗る癖(これを”ニタ”または”ノタ打つ”という)があります。私たちも、ときにはキレイごとに終始することなく、イノシシのように泥にまみれてつとめはげむことを惜しんではなりません。

目標にまっしぐら

イノシシは、走り出すと容易に曲がれないところから「猪突猛進」という言葉が生まれました。私たちは、社会において、種々の目標を与えられていますが、その目標に向かって”猪突猛進”を試みることの大切です。

ときには、怒る

イノシシの「怒り毛」というのがあります。イノシシの世にある剛毛は怒り立って、ピンピン。いつもニコニコ笑顔でいることは大切ですが、感情の動物である人間のことですから、ときには腹が立って、怒りたくなることだってあります。じっと我慢せず、怒るときは思い切り怒れば、ストレス解消にもなるかもしれません。

たまには、暴れん坊将軍

イノシシは凶暴で、ときには人間に危害を加えることもあります。私たちも失敗を恐れず、気迫をもって、他を圧する行動力が必要とされるときも‥

勇猛果敢

イノシシは勇猛な性質をもつ獣です。牙をむき出し、襲いかかってきます。このイノシシにあやかって、私たちも勇猛果敢にアタックしていくことが肝要です。

まりちゃん

山でイノシシに遭うと
クマ恐ろしいって

まりちゃん

やさしいだけじゃ
ダメなんだ

乱世を生きて、生きて、生き抜く

摩利支天を信仰した忍者は、陽炎のごとく人に見えず手に取れず、摩利支天のごとく諸難を払いのける玄妙な通力をもって、乱世を生きて、生きて、生き抜いたのです。

耐えて、忍んで、生き抜いた人を「忍者」と言うのではないでしょうか。
忍者の精神的な支え。それが摩利支天だと思うのですが、いかがでしょうか。

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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