斜度15度の子来坂(こらいざか)|金沢市内で自動車が通る一番急な坂道

子来坂 金沢 宝泉寺

急な坂道のまん中が階段?

え、なんで???

車が通ってる、、、

どういうこと?

目次

子来坂

宝泉寺は、ひがし茶屋街の真上に位置します。

境内からの眺望は、金沢で一番だといわれています。

途中、斜度15度の「子来坂(こらいざか)」が行く手をはばみます。

子来坂(森八、1982年カレンダー)
子来坂(森八、1982年カレンダー)

東郭から子来町を通って卯辰山へ登る。中腹宝泉坊の境内に五本松が亭々と聳えていた。

鏡花は「五本松の枝のはずれに、城の町は、川も橋も城も森も天守の櫓も、処々に薄霞した一枚の絵双六である」と其の風景を叙している。

城を望む絶佳の眺望は桜坂からのそれと双璧をなす。

(森八、1982年カレンダー「金沢の坂道」より)


金沢市教育委員会は、今も市民の生活の中に生(ママ)きづいている藩政時代からの由緒ある地名を後世に残すため、歴史のまちしるべ標示事業を発足させ二年を経ました。当社ではこれを記念して、すでに建立された碑(いしぶみ)の内から親しみ深い坂道十二を選び、一九八二年カレンダー「金沢の坂道」を作りました。製作にあたり、北國新聞夕刊に掲載された小笠原弘英氏「坂のまちしるべ」および金沢市広報を参照しました。記して謝意を表します。

森八

子来坂の由来

金沢・ひがし茶屋街の東端に、毘沙門を祀る宇多須神社がある。その横を抜けると、天にでも上るような、狭い急坂が現れる。それが「子来(こらい)坂」だ。

子来坂の由来

「町々より目印の旗、纏を立てて、老若男女衣装をかざりて卯辰山に集まり開拓を助く」と卯辰山開拓録は書いている。旗や纏をたてた町民が、まるで子どものようにはしゃぎながら、坂を上ってきたので「子来坂」と呼んだといわれるが、この話しは少しあやしい。

「子来坂」の「子来」は「帰厚(きこう)坂」の「帰厚」とペアをなす言葉だ。帰厚坂も卯辰山開拓のとき、子来坂と同時期に建設されたもので、天神橋から、いまの花菖蒲園へ上がる坂である。子来町の「子」は子どもではない、民を意味する。卯辰山開拓はまさに善政のモデルである。「子来坂」の意味は「多くの民が卯辰山に来たりて住み」、「帰厚坂」は「その徳を厚く帰する」のである。

坂は15度まで

子来坂は斜度15度の急坂だ。
金沢の町で、私道は別として、公道には15度を超える坂はない。それ以上の坂があるとしたら、坂とよばないで崖とよぼう。

金沢では、子来坂の斜度が車の上る最高斜度だ。それに次ぐのが観音坂(女坂)の14度、八坂の13度だ。ちなみに15度というと水平距離100メートルに対して27メートル高くなる斜面だ。子来坂は急な坂だけではない、幅員が3メートルというこれまた車の通れるぎりぎりの幅だ。中央がコンクリートの段になっていて、左右に40センチ幅の車輪の乗るスロープがある。車1台通と、人間の避けるスペースがない。坂の両脇は手摺りと崖だ。

(略)

坂を上り詰めると、摩利支天を祀る宝泉寺がある。ここからの眺めは、まるで天から下界を見降ろしてりうようだ。東は高三郎山から、西は日本海まで見渡せる。石川門や日航ビルまでが模型のように可愛い。

(略)

国本昭二『おあしす』1995年9月1日号掲載)
まりちゃん

斜度15度の子来坂を上りきって、右折。また階段を上って、参道を通って、またもや階段‥  左手に本堂があります。

まりちゃん

ichigamiさんが、すてきなサイトで子来坂や宝泉寺を紹介してくださいました。どうもありがとうございます。

目を通していただきたい記事があります。

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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