【秘仏】聖観音菩薩|宝泉寺の仏像

聖観音菩薩立像(部分)宝泉寺

おまえの母ちゃん、コメツキバッタやな〜

誰にでも頭を下げて歩く母の姿をみて、同級生があしざまに言いました。

コメツキバッタとは、ショウリョウバッタの別名。 バッタの後脚をそろえて持つと、体を上下に動かすのが、米をつくようにみえるので、そう呼ばれています。

いつだって母は、ひとさまの利のために心と行いを尽くし、自分のことは後回し。つねに感謝を忘れず、よく頭を下げていたので、他人にへつらう人のようにみえたのかもしれません。

目次

慈しみの眼

たとえ人からどう言われようとも、ありのままに生きた母。90歳近くになっても、瞳が水晶のように透き通っていました。それは母の利他の心と行いがまちがっていなかったことの証。吸いこまれるような美しい瞳でした。

観音菩薩のお優しい顔を拝むと、亡き母を思い出します。

南無観世音菩薩
南無母御前

未敷蓮華
頭をたれる未敷蓮華

聖観音
一般的に「観音」という場合、この聖観音のことを指します。正しくは「聖観自在菩薩(しょうかんじざいぼさつ)」です。のちに、十一面・千手・如意輪などの変化観音(へんげかんおん)があらわれますが、変化しないもとからのオリジナルを指す名称として、変化観音と区別するために聖観音の字を冠したと考えられています。

観音菩薩の5つの眼(まなこ)〈五観〉

「ものを観(み)る」ということは、観る人によって、観方(みかた)もいろいろ。すべて観る人の位置や立場によって変わってくるもの。ということはこれを逆手にとれば、自分の観方や心の位置を変えれば、ものの観方も変えることができるかもしれないということです。

さまざまな方向から光を当てることで、ものごとの本質をよりいっそう明らかにできる可能性があるということに気づかされます。

観音菩薩は、どのような観方をなさるのでしょうか。

真の観

浄の観

広大なる智慧の観

悲の観および慈の観

常にねがい

常にあおぎみるべし

『観音経』経には、「真(まこと)の観」「清浄(しょうじょう)の観」「広大なる智慧(ちえ)の観」「悲の観」「慈の観」とあります。これら5つあわせて「五観」。観音菩薩の5種のものを観る力、5つの眼(まなこ)をあらわしています。

  • (まこと)の観 まことの眼
  • 清浄(しょうじょう)の観 明るく清く澄んでいる眼
  • 広大なる智慧(ちえ)の観 広く大きな智慧で観る眼
  • 悲の観 あわれみの心で観る眼
  • 慈の観 いつくしみの心で観る眼

いろんな観方(眼)がありますね。

人の悪いところをあげつらうのではなく、いいところを取り上げてゆく慈悲の心で観れば、すべての人を友とみて、誰にでも優しい気持ちで接することができますね。自分の好きな人、役に立つ人だけに優しいのではありません。

複眼的な視野から観るということでしょうか。

まりちゃん

観音さまは、すべての事物を自由自在に観るから「観自在」ともいうよ。迷いの執着から解放された境界にあって、事物のすがたが自由自在に正しくみきわめられるから。

こんな素敵な観音菩薩によくよくお願いして、師(母)と仰がなければなりません。

そうして及ばずながら、観音菩薩の五観という眼を自分のものとする努力を続けていくと、観音さまの眼が私たちの眼となって、かつ然と目の前が開けていく‥

それが次の経文です。

無垢清浄の光

慧日はもろもろの闇を破り

よく災いの風火を伏して

あまねく明らかに世間を照らす

まりちゃん

五観という智慧「太陽」が闇を打ち破って災難をのぞき、この広い世間をパァ〜と明るく照らし出すんだ。

住職

できることなら、私たちもまたそうありたいと願います。
南無観自在菩薩 南無母御前

厨子入 木造 聖観音立像 一軀(宝泉寺所蔵)

厨子入 木造 聖観音立像 一軀(宝泉寺所蔵)

年代不詳

像高86.7cm

一木造り

金沢三十三観音霊場 第23番札所(御朱印あります)

護摩の薫香で真っ黒になった聖観音。本躰を一材から彫出した一木造の像。左手に未敷蓮華をとり、右手をまっすぐ下げ、岩上の蓮華座に立つ菩薩像。

本堂内陣におまつりされている。

宝泉寺の聖観音菩薩立像
やさしさ
100点
素朴さ
90点
親しみやすさ
(秘仏につき一般公開ございません)1点

*一般公開されていない秘仏だから、「親しみやすさ」ほぼありません。

あわせて目を通していただきたい記事がたくさんあります。

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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