摩利支天ご縁日|9/1 (日) 午前11時から護摩と法話

釈雲照律師のご染筆

釈雲照律師筆「諸悪莫作衆善奉行」(部分)

釈雲照律師筆「諸悪莫作衆善奉行」(部分)

母からゆずりうけた書画のなかに

近・現代における高野山真言宗の管長さまや法印さまなど高僧方のご染筆がありました。

おさとりの境地から揮ごうされたすばらしい作品ばかりです。

折りを見て少しずつ、ご紹介させていただきます。

今回は釈雲照律師のご染筆です。

釈 雲照(しゃくうんしょう)律師〈1827-1909〉

文政 10年4月15日 島根県出雲市東園渡部忠右衛門5男に出生
天保 7年9月8日 10歳で多聞院慈雲上人に従って得度
弘化4年9月 21歳で島根県大東町普賢院住職
高野山に登山し真別所で求聞持、八千枚護摩供修行ひたすら錬行
別処栄厳和尚より具足戒を受く、以後慶応2年まで栄厳師のもとにて伝授、修法研究を続ける
明治元年 排仏毀釈で大打撃を被った時期、師は護法運動を徹底して行った。
すなわち戒律主義を唱え、目白僧園を中心に律僧の養成につとめ、「十禅会」を中心に十善・四恩による教化を尽くし、廃仏は外からの迫害で行われるのではなく、僧の怠惰によって招くものであるといましめた
  2年 高野山福寿院住職
   12年 大学林学頭
   15年2月 後七日御修法再興運動を起こす
   同年8月 御修法再興の勅許を受く
   16年 京都に「十善会」を設立
   20年2月 目白に戒律学校設立
   同年5月 那須雲照寺落慶
   23年4月 『十善宝窟』発刊
   同年 戒律学校を目白僧園と改称
   30年5月 各地に十善会支部設立
   35年 満州より韓国巡教       
   42年4月13日 遷化 83歳

*全生涯を通じて堅持したのは、強い戒律主義であった
 著書に『仏教大意』『仏教原理』『仏教言原論』『仏教通論』『十善大意』ほか多数がある。

(『高野山僧伝聞書』(近・現代篇)山口耕榮著)

メ モ

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する意
明治初年、祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された。

釈雲照律師のご染筆

諸悪莫作 衆善奉行(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)

宝泉寺 所蔵
紙本 119.7×26.3

釈雲照律師筆「諸悪莫作衆善奉行」

釈雲照律師筆「諸悪莫作衆善奉行」

8字1行書。

「もろもろの悪をなすなかれ もろもろの善を奉行し」

あまりにも有名な七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)前半のことばです。

 

悪いことをしないで、善いことをする

 

「わかる」と「できる」とは、まったく次元が異なるようです。

ましてや「身につく」となると、そう簡単にはできません。

 

こんな話があります。

よく木の上で座禅をなさっていたお坊さんがいました。

 

道林禅師さまです。

 

そこへ白楽天という有名な詩人がやって来て、

 

「仏法っていうのは、いったいどういうものですか」と尋ねます。

 

すると禅師は、

 

諸悪莫作、衆善奉行

 

「悪いことをしないで、善いことをするんだ」

 

とお答えになられました。

 

「それが仏法ですか」

 

「これが仏法だ」

 

「そんなことくらいなら、三つの子でも知っています」

 

「三つの子さえ知っていながら、八十になってもできないものが多い」

 

住職

「わかる」と「できる」は、次元が異なる。それを自ら実践し、教え示されたのが、雲照律師さまでした。
参考 高野山高僧遺墨摩利支天

オンマリシエイソワカ