摩利支天ご縁日|7/1 (月) 午前11時から護摩と法話

龍池密雄猊下のご染筆

龍池密雄猊下筆「室閑茶味清」(部分)

龍池 密雄(りゅういけみつおう)猊下〈1843-1934〉

天保 14年8月24日 広島県深安郡上村 和田仁右衛門4男に出生
嘉永6年10月10日 同郡中条村寒水寺 浄宥上人の弟子となる
安政6年 17歳にて登山、随心院隆僊、蓮金院海応、正智院良基、補陀洛院学雄、宝光院宝鎧、大聖院玉諦等の学匠につき学業を研鑽し、声明を心南院恵晃に、律を真別所栄厳、釈雲照等に学習する
明治19年1月27日 総持院に晋住、理性院兼務
  24年7月27日 権少僧正
  29年7月13日 少僧正に昇補 
  30年12月31日 当山保存会設立委員
     31年3月14日 12年 当山興隆会主任、大覚寺門跡
     36年 高野山第403世寺務検校執行法印職に昇進

大正元年8月13日 権大僧正に昇補
  同年8月16日 宝性院門主、宝性院住職、福山支所下管理
  9年 真言宗長者とし後七日御修法を奉修
  10年 親王院において学修潅頂の大阿として土宜法龍管長外3名に授法
     大正天皇御大典奉寿、御悩平癒の御為に般若心経2万5000巻を謹写

昭和3年9月25日 金剛峯寺第389世座主、古義真言宗管長並びに勧学財団総裁、御遠忌事務局総裁、高野山霊宝館第4代館長
  9年3月4日 遷化 92歳

(『高野山僧伝聞書』(近・現代篇)山口耕榮著)

龍池密雄猊下のご染筆

桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれど、したみずからこみちをなす)

宝泉寺 所蔵
紙本 110.8×35.3

龍池密雄猊下書「桃李不言下自成蹊」

龍池密雄猊下書「桃李不言下自成蹊」87才

8字1行書。

落款「晩翠八十七叟書」印

桃や李(スモモ)は何も言わないけれど、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と小道ができるという李広将軍その人をたたえた故事。

桃や李は人格者のたとえ。そのような人物には黙っていても、徳を求めて人々が集まってきます。

管長さまの御人徳を慕って、多くの方々が高野山にのぼられたことでしょう。

謙受益(けんはえきをうく)

宝泉寺 所蔵
紙本 110.8×35.3

龍池密雄猊下書「謙受益」

龍池密雄猊下書「謙受益」87才

3字1一行横書。

落款に「高野山座主晩翠八十七叟書」。

物心ついた頃から、自宅にかかっていた扁額の一つ。

「謙は益を受く」とは、謙虚さは利益を呼び寄せる意。

慢心をいさめ、絶え間ない努力こそが天の道と説く。

室閑茶味清(しつかんにしてちゃみすがし)

宝泉寺 所蔵
絹本 134.6×31.8

龍池密雄猊下書「室閑茶味清」

龍池密雄猊下書「室閑茶味清」91才

5字1行書。

落款「晩翠九十一叟書」印

茶室の中は閑かに冴えわたり、いただく一服のお茶の清々しいことかという意味です。

清らかなお人柄がにじみ出る、最晩年の書。

聞くところによると、慶応元年23歳のとき、高野山を下山。備後国平野村の龍池山法楽寺の住職となり、明治5年に戸籍を作った際、生家の「和田」を称せず、お寺の山号をもとに「龍池」を姓にされたそうです。

参考 高野山高僧遺墨摩利支天

オンマリシエイソワカ