摩利支天ご縁日〈毎月1日〉護摩と法話 あります。

摩利支天に帰依し、宝泉寺本堂を再建した三浦彦太郎氏

三浦彦太郎君之像(正面)

このたび、金沢市の助成を受けて、第二期本堂修理工事がおこなわれています。12月までなにかとご不便をおかけいたします。本堂参拝は可能ですので、安心しておまいりなさってください。

前回の宝泉寺本堂修理で、現在のお堂が大正期から昭和期にかけて再建されたものであることがわかりました。

 

古記録によると、天保十四(1843)年、火災により堂宇、古記録類一切を焼失。再建されることなく、草堂を建てるのみであったとあります。

 

奇しくもご本尊摩利支尊天や仏画は消失をまぬがれ、いまに伝存することは奇蹟であるといえるかもしれません。

 

明治初期の排仏毀釈によって、残った建物も取り壊され、金沢市無量寺の白鳩神社へ移築されといわれています。

 

数々の苦難を乗り越え、大正時代に再建したのが、現在のお堂です。

 

悲願の本堂再建は、摩利支天の帰依が厚い篤信者であった三浦彦太郎氏の寄進によって、はじめて成し遂げられたそうです。

 

三浦彦太郎氏とは、いったいどのような人だったのでしょう。ここでご紹介させていただきます。

箔打ち機を発明し、箔業に革命をおこした三浦彦太郎氏

三浦彦太郎氏

宝泉寺本堂を再建した三浦彦太郎氏

三浦彦太郎氏(以下敬称を略します)は、大正時代、箔打ち機を発明し、箔業に革命を起こした偉人の一人です。

金をのばして作る金箔は、全国生産の99パーセント以上を、銀箔や洋箔の生産は100パーセントを金沢箔が占めているそうです。いまでは「金沢金箔」は、世界で有名な品として外国に輸出され、金沢市の重要な産業の一つとして発展しています。金沢市における製箔業がここまで発展してきたのは、三浦彦太郎が「箔打ち機械」を発明したことによるところが大きいといわれています。

彦太郎が生まれる前の江戸時代は、幕府の『箔打ち禁止令』で江戸と京都でしか箔を作ることは許されていませんでした。ところが文化五(1808)年、金沢城二の丸御殿が火事で燃え、お城を作りなおすために大量の金箔が必要となり、金沢で金箔を作れるようになったそうです。

明治十六(1883)年、十四歳になった彦太郎は、箔職人の能鹿島與三松(のかじまよそまつ)に弟子入りをし、箔づくりを学びはじめました。

製箔は、金・銀・銅の地金を高熱で溶かし金の合金をつくり、その合金を打ち延ばして箔の上澄みをつくります。この上澄みを打紙(うちがみ)の間にはさんで槌で打ち、形や厚さを直しながら打ち上げていくのです。厚さ一万分の一ミリまで同じ薄さにのばした物が金箔です。彦太郎は、一つひとつの技を與三松からしっかり学び、技術を身に付けていきました。

彦太郎が二十四歳になった明治二十六(1893)年、祖母の死去をきっかけに独立。金銀、洋箔の製造工場を建て、金沢を日本一の箔の特産地にしてみせると、亡き父や祖母の仏前で誓いを立てています。

明治二十八(1895)年、手打ちのままでは、将来の発展はのぞめないと製箔の機械化を志し、苦心惨憺。研究と実験を重ね、大正四(1915)年、機械化に成功。彦太郎、四十六歳の春でした。

参考 金沢箔 | ステキ別冊「金沢工芸本」 Vol.2 金沢伝統工芸ネット 参考 金箔の歴史,製造工程,応用技法金沢市立安江金箔工藝館

大正六(1917)年、アメリカに渡り、製箔の実情と需要の調査をしています。彦太郎の夢は、世界中に「金沢箔」を売って、金沢を日本の箔の特産地とすることでした。しかも自分だけの利益だけを考えず、石川県下の箔職人のことを考えて、発明した機械の特許をとり、機械を使いたいと申し出た金沢の箔職人に開放。大正の末には、県下のほとんどの作業場で、彦太郎発案の箔打ち機が備えられたそうです。

その後、彦太郎の片腕として工場を経営していた孫二(まごじ)をアメリカに送ったり、東南アジアの国々へ「金沢箔」の販路拡張の基礎を築かれました。

いまは、金銀糸用の銀蒸着フィルムの販売を軸に世界に発信しておられます。

三浦彦太郎氏略年譜

三浦彦太郎氏略年譜
主な出来事年齢
明治二(1869)年一月十六日、金沢の三社宮(今の高岡町)で父元堅の長男として、前藩士の家で生まれる。

0歳

明治七(1874)年九月二日、父の元堅三十七歳で亡くなる。

五歳

明治九(1876)年、養成尋常小学校に入学。

七歳

明治十六(1883)年、箔職人の能鹿島與三松に弟子入りする。

十四歳

明治二十六(1893)年、祖母八十二歳で亡くなる。三社宮で箔業を独立開業する。

二十四歳

明治二十八(1895)年、製箔の機械化を志す。

二十六歳

明治三十一(1898)年、京都の疎水の水力を利用して製箔機の研究をする。

二十九歳

明治三十二(1899)年、研究の資金がなくなり、京都から金沢に帰り、研究を中断する。

三十歳

明治三十五(1902)年十二月、初めて電力で動く製箔機械を造り、試運転するが失敗する。

三十三歳

明治三十八(1905)年九月、ロシアと日本が戦争をしたため、製箔機械でのは空地を中止する。

三十六歳

明治三十九(1906)年四月、妻の中の実家から孫二を養子に迎える。

三十七歳

明治四十(1907)年、製箔機械での箔打ちを再開するが、失敗する。

三十八歳

大正三(1914)年、製箔機械での箔打ち研究を続ける。県立第二中学校在学の孫二を中途退学させ、箔業に従事させる。箔組合を設立して初代組合長となる。

四十五歳

大正四(1915)年六月、電力を動力とする製箔の機械化を成功する。

四十六歳

大正六(1917)年、アメリカに渡り、製箔の実情と需要を調査する。

四十八歳

大正十四(1925)年、市場をひろげるために、東南アジアの国々の需要を調査する。

五十六歳

昭和十一(1936)年、大日本産業協会より表彰される。

六十七歳

昭和十三(1938)年、古希のお祝いとして、卯辰山に『三浦彦太郎君の碑』が建立される。

六十九歳

昭和十四(1939)年四月七日、亡くなる。

七十歳

卯辰山にある『三浦彦太郎君之像』

昭和十三年、彦太郎の古希のお祝いとして、卯辰山に顕彰碑が建立されました。もとあった銅像は、戦時中供出され、いまは基壇の上に石版を残すのみです。

天神橋を渡って、卯辰山を駆け上がり、菖蒲園を越えたヘアピンカーブのところにあります。

三浦彦太郎君之像(正面)

三浦彦太郎君之像(正面)銅像供出

参考 卯辰山碑マップ金沢市公式ホームページ

『三浦彦太郎君之像』の基壇におさめられた碑文

基壇におさめられた碑文を書き写しておきます。

三浦彦太郎君之像

三浦彦太郎君之像(碑文)

翁名彦太郎三浦氏號仙山加賀金澤人考
諱元堅妣某氏以明治二年一月十六日生
幼孤長精敏有氣力年甫十六從能鹿島與
三松學製箔深其術乃設工場獨力經營
既而謂世運日進製箔之業亦定改其法乃
欲用器機代手工焦心苦慮閔十餘歳三十
五年十二月初造一機以電力試之益在金
澤用電力於工業以翁為先驅然猶未完研
鑽益力竟至大成實大正四年六月也翁既
製良機而恐生産過剰欲求販路於海外以
除其患六年航米國察需用何如尋遣男孫
二于紐育設支店為販鬻十四年巡游暹羅
印度 旬規畫得冝遂致今日箔類輸出之
盛先足翁與同業者謀設組合推為其長能
定基礎又為商工會議所常議員三興證券
株式會社重役昭和十一年受大日本産業
協會表彰状又屢受縣市褒賞今茲戊寅翁
齢躋古稀知友胥謀建銅像於城東臥龍山
以圖不朽来請余文記之余曽識翁翁寛厚
長者思慮(糸+真)密創事必遂常以興公益為念
尤能誘(方+夜)後進待人恩詛兼到為呼是所以
今日有壽像之擧也歟乃系銘曰夙作良機
翠如拭遊人来徂仰欽功徳
昭和十三年三月
畏齋赤井直好撰并書

住職

銅像のお写真
お持ちの方いらっしゃいませんか〜
ぜひ拝見させてください。

三浦孫二氏著『回顧録』より「養父母の思い出」

三浦家の養子となって、家業を継がれ、発展させた孫二氏の「養父母の思い出」という一文を紹介させていただきます。

実直で正直な彦太郎氏と、質素倹約につとめた仲子さんの人となりがわかります。

養父母の思い出

私は、叔母即ち父の妹が三浦彦太郎へ嫁いでいた関係からその養子となった。

養父は性来真面目で、酒は飲まず、御飯も御馳走の有無に拘わらず生涯三杯で押し通すという風に、万事が謹直にして手堅い性質であった。

雑談はきわめて巧拙で頓智に富み、人を引きつける魅力があった。側にそれを見たり聞いたりしていた私はいつも敬服していたものである。

また太っ腹で人を可愛がり、己を忘れて人の面倒を見たものだから、自然人から大いに尊敬されていた。

夢香山(向山=卯辰山)に箔業界が養父の銅像を建てて功績を讃えたのも誠に故あることである。また信仰心篤く神仏に帰依していたから、神社仏閣へも惜しまず分に過ぎたる奉納もした。以上の諸点から見ても、実母に対して孝養の篤かったことは不思議はない。

趣味は諸堂であって、仙山と号し、好みに任せて掛物や額面など揮毫したものだ。拙宅仏間の「三釡之養」や、諸江工場の事務所にかけてある「至誠」の額字は養父の筆である。

昭和十四年四月七日、古希の齢の送り、七十一歳で永眠。

養母仲子は、生まれつき質素で、万事清潔を好み、加うるに、針一本、布切れ一片も大切に保存するという風で、ものを粗末にすることが大嫌いであった。廃物になるようなものでも出来るだけ活用して、家政の補いにするという風であった。

箪笥の中など、常にキチンとした整頓ぶりの如き、お手本になる資格は充分あった。中にも感服したのは、映画やお芝居の見物など、家を留守にして飛び廻るようなことは殆どなく、極めて地味な性格で、一生家を守りつづけて、家政に忠実であった所の如き、東洋婦人の典型であったといってよい。

養母の逝けるは、三浦家が漸く浮かび上がりかけた昭和八年八月三十日で、養父に先立つこと八年、享年五十七歳。

(『回顧録』三浦孫二著、昭和二十年四月十二日)

宝泉寺の壇信徒総代をつとめた三浦孫二氏

三浦孫二氏には、長年にわたって宝泉寺壇信徒総代をつとめていただき、たいへんお世話になりました。

本堂のすぐ近く、養父母の法名を刻んだ石仏が仲良く並んでいます。ご子息夫妻がお子さんをつれておまいりに来てくださっています。

三浦家ご先祖様の菩提を祈るとともに、家運の発展を願ってやみません。
南無摩利支尊天

三浦孫二氏

摩利支天への帰依厚く、宝泉寺総代を歴任された三浦孫二氏

三浦家奉納石仏(金沢宝泉寺)

三浦家奉納の石像 二躰(金沢宝泉寺)

オンマリシエイソワカ