丸く治める「摩利支天」

丸く治める「摩利支天」

加賀藩の風景(28)宝泉寺(金沢市子来町)
鬼門を守って400年「丸く治める」願い反映
午前八時半。市街を一望する金沢市子来(こらい)町の高台に、黄土色の衣をまとった僧侶が姿を現した。高台のそばにあり、金沢城の「鬼門(きもん)」に位置する真言宗宝泉寺(ほうせんじ)住職の辻雅榮(がえい)さん(46)。マンションの間からのぞくのは金沢城だ。

城に向かい読経

辻さんは周囲の野仏に香を手向けた後、城に向かって手を合わせ、般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱え始めた。澄み切った秋空の下、経文は金沢の街並みに吸い込まれていくようだ。

宝泉寺は四百年間、金沢の鬼門を封じてきた寺である。「本堂で毎朝護摩(ごま)を焚(た)き、最後の締めくくりは必ずお城を拝んでいます」。読経を終えた辻さんは眼下の市街地にあらためて合掌した。

鬼門は北東の方角を示し、「鬼が出入りする方角」として忌み嫌われてきた。迷信と割り切る向きもあるが、現在も家作りの参考にする人も少なくない。京都では「鬼門」に延暦寺、江戸には寛永寺が配置されるなど、日本の都市計画と密接に関わってきた考え方と言えるだろう。

加賀藩は、金沢城の鬼門に当たる卯辰山周辺に真宗以外の寺社を集中させる「都市計画」を展開した。一向一揆や敵軍が侵攻した時の軍事拠点にするのが狙いである。金沢城下の動静をうかがうことができる宝泉寺の高台は、ことのほか重要視されたようだ。

加賀藩三代主前田利常が、重臣戸田重政(とだしげまさ)に宝泉寺を建てさせたのは、今からちょうど四百年前の一六〇六(慶長十一)年。「名人越後(めいじんえちご)」と呼ばれた剣術師範が手掛けただけに、謎めいた話も伝わる。辻さんがこう語る。

「この寺の地下にトンネルが掘られているという話も信徒から聞きました。本堂からの入り口はどこにおるのか分からないが、有事に麓(ふもと)から兵士を送り込むためだったという人もいます」

本尊の摩利支天(まりしてん)は、前田利家が兜(かぶと)の中に収め、末森の戦いなどに臨んだという逸話が残る。仏像の膝の上に乗る小さな仏様。先月営まれた創建四百年に合わせて四十五年ぶりに公開されたが、あまりの小ささに本尊と気づかずに帰ってしまう人もいたほどだ。誰にも悟られずに目的を達成する「隠形(おんぎょう)」の功徳を、体現しているのである。

「角を立てずに、戦国の世をのし上がり、幕府にも丸く接して百万石を維持した。摩利支天のお姿には、丸く治めるという前田家代々の願いが重なって見えるようです」と辻さんはみる。

空襲除けの法要も

戦時中には浅野川べりへ本尊を運び、米国の爆撃機から金沢を隠す、「空襲除け」の法要も営んでいる。ご利益を求めて選挙での「穏やかな勝利」を願い、ひそかに訪れる議員は少なくない。

現代の「鬼門封じ」のいみを問うと、こんな答えが返ってきた。

「卯辰山の周辺では、宗派は違えど様々な寺社がそれぞれの祈りを捧げている。それが落ち着いた街並みを作り出し、街全体に良い影響を与えている。我々の祈りは一種の危機管理だと思う」

宝泉寺など卯辰山近辺にある寺社の総数は約五十。鬼門での膨大な「祈りの集積」が金沢の安全を守っているのかもしれない。

 ★〔鬼門(きもん)〕

鬼門は、古代中国の地理書である「山海経」がもとになって、日本に伝来した考え方とされる。近年、平安時代の祭祀具ご発掘された七尾市の小島西遺跡では、出土品が北東の方角を向いていることから、「鬼門封じ」の意味があったと指摘する研究者もいる。

(北国新聞2006年11月05日)

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