摩利支天のお正月〈年末年始のご案内〉

摩利支天のご利益

摩利支天のかたち

勝負所で見えない功徳

 

政治家なら選挙、営業マンなら大きな契約、病人なら手術、学生なら試験合格、入社。人生には「ここ一番」と言える場面がいくつか待ち受けている。

金沢城の「鬼門」を守る金沢市子来町の真言宗宝泉寺は、こうした勝負所で、誰にも悟られずに目的を達成する「穏形」という功徳をもつ摩利支天を本尊としている。

高さ5センチほどの秘仏であり、加賀藩祖、前田利家が末森城の戦いなどで、自身のかぶとの中にしのばせて出陣したとも伝わる。

辻雅榮住職は「今でいうリスクマネジメント、危機管理の神様でしょうね」と話す。辻住職は「摩利支天陀羅尼呪経」を見せてくれた。いわく、摩利支天は誰も見ることができず、つかまえることもできない。人にだまされることも、人に縛られることもない―。

「見えない」功徳は、摩利支天に帰依する人に及ぶと説いている。「勝守」というお守りを取り扱っており、「ここ一番」での勝利を願う人々が求めていく。

辻住職は「摩利支天に守られということは、拝まれる人になるということ。自信を持って歩んでほしい」と話す。北陸鉄道、JR西日本バス「橋場町」から徒歩10分。

(北國新聞2010年5月25日)

勝負所で見えない功徳

勝負所で見えない功徳

摩利支天のご利益〈見られないという加護〉

大般若経の唐櫃に身を隠す大塔宮護良親王

大般若経の唐櫃に身を隠す大塔宮護良親王

元弘の乱後、征夷大将軍として活躍した大塔宮護良親王(おおとおうにみやもりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)は、やがて足利尊氏と対立し追われて熊野へ逃げる途中、奈良の般若寺に立ち寄りました。

そこへ足利方についた一乗院の好専が、百余騎の軍勢を率いて寺内の探索にきました。

とっさに身の危険を感じた大塔宮は、仏殿に入り、フタが開いていた『大般若経』 の唐櫃に潜り込み、摩利支天の印言を結誦。すばやく身を隠します。

追っ手の兵たちは、フタの閉じてある方の唐櫃を点検し、「大般若の櫃も中をよくよく捜したれば、大塔宮は居らせ給はで、大唐の玄奘三蔵こそおはしけ」と言って引き上げて行きました。

まさに護良親王の命拾いは、摩利支天尊の隠形の加護によるものです。

忍術の秘伝書「万川集海」にみる、大塔宮尊雲親王の隠形

万川集海

忍者の秘伝書「万川集海」

大塔宮尊雲親王が南都の般若寺に潜に隠れていた時、一乗院の候人の按察法眼好専(あぜちほうげんこうせん)が如何にして聞き付けたのか、五百余騎を率いて未明に般若寺に押し寄せてきた。

運悪く、宮側の味方は一人も居なかったので一防ぎして逃げ落ちる術もなく、その上、隙間もないほど兵が境内に討入っていたので出る事も出来ず。もはやこれまで、と自害すべく帯上の衣服を脱いだ。

考えて見ると、叶わないから腹をきるのでは余りにも簡単がすぎる。よし隠れてみよう、と思って引き返して仏殿内を見渡すと、読みかけの大般若の唐櫃〔六本脚の唐風櫃〕が三つあった。二つの櫃はまだ蓋を閉じたままで、残りの一つは御経の半分過ぎを取出して蓋が開いていた。

親王は蓋が開いていた櫃の中に小さくなって隠れ、その上に御経を引っかけて隠形の呪(まじな)いを心の中で唱えた。見付かったらすぐに腹を切ろうと思い、氷のような刀を抜いて腹に刺し当てて、兵共の「見付けたぞ」の一言を覚悟していた。

兵は仏殿に乱入して仏殿の下、天井の上までも隅々まで捜し尽くした。終に「あの大般若の櫃が怪しい。開いて見よう」と言って蓋をしていた二つの櫃を開いて御経を取出し、底を翻したが宮は入っていなかった。不思議と命が続くものである。夢に道行の心地がして、なおも櫃の中でじっとしていたが、また兵共が引き返して詳しく捜すかも知れないと思って、前に捜した櫃に移り換えて隠れていた。

案の定、兵共がまた来て仏殿に上り、先に蓋を開いた櫃は見去って、この蓋が開いている櫃は捜した覚えがないぞと言って中の御経を皆取出した。突然、

兵共はからからと笑って、「大塔宮ではなくて、大唐の玄奘三蔵がおられた」と戯れ、兵共は皆一同に笑って門外に出て行ったという。

(「万川集海」巻第十三)

 

鶉隠れ(ウズラガクレ

昔、ある城へ忍び込んだ伊賀忍者は、夜廻りの者が近づいてきたので、空堀の中へ飛び降り「鶉隠れ」で隠れました。敵は空堀に人影らしきものを見つけ、槍で突きます。槍の穂先は忍者の腹を突き抜けました。しかし忍者は少しも動きません。

「動かないから、人ではないだろう」といって敵は立ち去ります。その後忍者は深手を負ったにもかかわらず、城に放火して落城に導いたそうです。

かつて、「伊賀忍者は石になる」といわれ、石になりきる、すなわち恐怖心を克服して不動の心に至れば、敵に見つかることもなかったということです。

万川集海
忍者が用いる術や道具などを記した忍術書である。そのうちもっとも有名な書物が「万川集海(まんせんしゅうかい)」である。全22巻からなるこの忍術書は、1676年に伊賀忍者だった藤林長門(ふじばやしながと)の子孫、藤林保武(やすたけ)が著したとされる。伊賀・甲賀や諸流のすべての忍術を、あたかもいくつもの川が海に流れ込むかのように集大成したものであるというのが、書名の由来である。
敵に見つかる恐怖心に打ち勝つため、摩利支天の真言を口の中で唱え、呼吸を調え、精神を集中させていたのかもしれません。

まりちゃん

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