毎月1日、摩利支天のご縁日。午前11時から護摩と法話があります。

摩利支天|前田利家公直属の陰軍団

寛永4年侍帳 石川県立図書館

加賀忍び

司馬遼太郎の原作(「梟の城」)を工藤栄一監督、大友柳太朗主演で映画化した時代活劇「忍者秘帖 梟の城」を忘れてはいけません。実は、この映画の脚本を書いたのが、隆慶一郎(池田一郎名義)だったのです。

一夢庵風流記

一夢庵風流記

隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」には、前田利家公が扶持した加賀藩の陰軍団として「加賀忍び」が登場します。

石動山合戦などで活躍したいわゆる加賀忍びは、四井主馬に率いられた利家直属の陰軍団である。主君 として白日の下で堂々と果すことの出来ぬ隠微な仕事を請け負うのが、この陰軍団だった。この男たちが 松風と闘っていると云う一事で、この襲撃の裏に利家のいることがはっきりと示されたことになる。

(隆 慶一郎「一夢庵風流記」)

MEMO
隆慶一郎「一夢庵風流記」昭和62年、讀売新聞社より刊行。柴田錬三郎賞受賞作品。後に『風流夢大名』として舞台化。原哲夫らによるマンガ化作品『花の慶次 ―雲のかなたに―』が生まれた。

忍者集団の頭領、四井主馬(よついしゅめ)

四井主馬は、加賀国(現在の石川県)を治めた前田利家のつくった忍者集団(陰軍団)の頭領だったようです。しかし、主馬が前田家の配下になる以前は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名「武田氏」に仕えていたともされますが、詳しいことがほとんどわかっていません。

ただ、石川県立図書館所蔵「寛永四(1607)年侍帳」(加賀藩の侍帳で、侍の石高と氏名の記録)には、「一百石  四井主馬」(赤枠部分)とあるばかりです。

「寛永4年侍帳]」石川県立図書館

「寛永4年侍帳」石川県立図書館

参考 加賀藩の侍帳目次「寛永四年侍帳」石川県立図書館ホームページ

前田利長公の戦捷

そこで、いま一度、「四井主馬」なる人物を、石川県関係人物文献索引で調べて見ることにしました。すると「石川県史」第二編と「加能郷土辞彙」などに、その記述があることがわかりました。

「石川県史」第二編では、1600年(慶長5)年8月3日、「利長すなわち四井主馬に命じて火をはなたしめ、ついで城中に入りて、敵の首級を検するに五百四十四顆を算せり」とあり、「加能郷土辞彙」には、「慶長5年8月3日大聖寺城の陥落した時、前田利長は直に四井主馬を城中に入れて放火せしめたとある。主馬は忍びの者であったのである」と書かれていました。

加賀 大聖寺城跡

加賀 大聖寺城跡

1600年(慶長5)8月3日、大聖寺城陥落後、前田家二代利長公の命によって、忍者・四井主馬が城中に入り放火したようです。

ではいつ、だれが、加賀藩に陰軍団を組織したのか?

それが問題です。

「大日本史料」東京大学史料編纂所編纂 第十一編之一には、「能州石動山軍、付石動山焼失事」荒山合戦記として、1582年(天正10)年6月26日、「利家、伊賀ノ偸組(ぬすみぐみ)ヲシテ、寺ニ放火セシム」とあり、「前田利家ハ、伊賀ノ偸組トテ、五十餘人扶持シ置シカ」と記されていました。

とゆうことは、加賀藩主である前田利家公が、伊賀の「偸組(ぬすみぐみ)をして、50人あまりに俸禄を与え、家臣として抱え、彼らをして寺に放火せしめたことになります。前田利家公が扶持した忍者集団は、伊賀の偸組(ぬすみぐみ)だったようです。

荒山合戦記にみる忍者集団「偸組(ぬすみぐみ)」

荒山城址

荒山城址

『武士の家計簿「加賀藩御算用者」』の著者として知られる磯田道史もまた、加賀藩の忍者に着目し、「忍びの者は確かにいた」と述べています。

忍びの者は確かにいた。加賀前田家も忍びを飼っていた。前田利家は伊賀国(三重県)から忍者50人を召し寄せ、汚れ仕事をさせていた。

『荒山合戦記』という古記に見える。

利家は、この忍者集団を「偸組(ぬすみぐみ)」と名付けていた

事実、そういう役目であった。忍び衆をこのようにあからさまに呼んだのは、ほかには鳥取池田家の例がある。

この偸組の棟梁は四井主馬(よついしゅめ)といい、利長(としなが)に仕え、関ヶ原の内乱時、大聖寺城を焼き払った。

(読売新聞社北陸支局編「北陸から見た日本史」所収「加賀の忍者」磯田道史)

これもまた、荒山合戦などで活躍したいわゆる加賀忍びは、四井主馬に率いられた利家直属の陰軍団であったとあります。

さらにこのあと、筆者は東京・神田の古本屋街で「水鏡」と書かれた和綴じの本をみつけ、加賀藩の「無拍子流」という忍術が江戸時代後期まで脈々と受け継がれていたことに感動しています。

驚いたことにそれは加賀藩の「無拍子流」の忍術秘伝書であった。金沢にそいいう忍術流派があるのは知っていたが、まさか史料が出てくるとは思わなかった。

二木新十郎政長(にきしんじゅうろうまさなが)から八代に及ぶ忍術継承が記され、最後は文政五年(1822)二月、勝木多左衛門源頼重(かつきたざえもんみなもとのよりしげ)とあった。

伊賀流でも甲賀流でもなく、無拍子流などという地生えの忍術が江戸時代後期まで脈々と受け継がれていたことに感動した。

(読売新聞社北陸支局編「北陸から見た日本史」所収「加賀の忍者」磯田道史)

MEMO
無拍子流は、江戸時代初期に加賀藩で生まれた武術であるという。現在では、主に柔術が伝承されているが、本来は柔・棒・剣・鎖玉・筒矢・乳切木・縄・呪術など多数の術を含む総合武術であった。遠祖は二木新十郎政長、流祖は金子吉兵衛正武とされている。

まりちゃん

加賀藩の忍者に関する史料がまだ見つかるかもしれませんね。

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