毎月1日は、摩利支天のご縁日。午前11時から護摩と法話があります。

摩利支天|摩利支天と忍者

最後の伊賀者

最後の伊賀者

昨年末、北陸大学の武田幸男教授(地域連携センター長)と学生が、当山本堂に忍者の人形を設置されました。それ以来、「摩利支天と忍者は、どんな関係があるの?」と、尋ねられることが少なくありません。

そこでさしあたって、摩利支天と忍者の関係について調べてみました。あくまでも推察の域を出ませんが、少し紹介いたします。

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摩利支天のご利益

摩利支天は、陽炎(カゲロウ)を神格化した仏教の守護神です。

そもそも摩利支天は光がひらめく陽炎ですから、それを捉えることも捕まえることもできません。敵の目にも見えません。だから倒されず、傷つけられず、自在の力をあやつって、勝利をおさめてしまうのです。まさに、摩利支天がもつ「隠形(オンギョウ)」というご利益のなすところです。摩利支天の隠形とは、真言と印契の力をもって、自分の姿を隠して見えなくしてしまうことをいいます。

日本では、摩利支天は古くから武将の戦勝の神として信仰され、いざ出陣のとき、兜や鎧の中にお守りとしてひそませて戦にのぞんだといわれています。その一人が、加賀藩主の前田利家公です。

当山には、前田利家公の守り本尊である秘仏摩利支天をおまつりするほか、加賀藩の剣術指南であった富田重政や富田重康の護身仏であった摩利支天をも伝存するところから、北陸随一の「摩利支天霊場」として信仰を集めています。

忍者も崇敬した摩利支天

忍者もまた、摩利支天をひそかに崇敬していたことが知られています。

忍者の最重要任務は、相手の情報を獲得し、それを持ち帰ることです。したがって一番大切なことは、生きて生きて生き抜くことです。そのために決して命を落とさず、戦いを避け、逃げるを恥としないことであったと考えられています。

もっとも忍者は、極秘裏に活動し、その名を残しません。それ故に、史料が多いわけではなく、忍者が摩利支天をどのように信仰したかは想像の域をでないのが残念です。

しかしながら忍びとして生きる者が、自らの姿を見られなくする「隠形」の功徳を第一とする摩利支天を尊崇したことは、当然ではないかと指摘されれば、当然であると同意するにやぶさかではありません。

そこでここでは、かつて「忍豪作家」と呼ばれた司馬遼太郎の作品を参考にして、忍者がどのようなかたちで摩利支天を崇敬していたのかを見てゆきたいと思います。

摩利支天を説く経典

 

釈道の守護神摩利支天は、梵語で陽炎の意である。春の野辺にもえたつかげろうは、その形相、見ることができず手にとることも叶わない。

「天アリ摩利支と名ヅク。常ニ日ノ前ニ在ッテ行き、シカモ日ハ彼ヲ見ズ、彼能ク日ヲ見ル」という「摩利支提婆華鬘経」の章句は、陽炎をもって人格神に具象した古代印度人の美しい想像力を偲ばせる。

その姿は天女に象どり、頭には瓔珞の冠を頂き、左手に天扇を持ち、右手は下へ垂れて掌を外へむけ、五指をのべて与願の勢をなし、しかもその姿は人には見えない。ただ摩利支天のみ人を見ることができる。

これを祈念すれば、余人に知見せられることなく、余人に束縛されることなく、しかも王難、賊難、行路難、水火難、刀兵軍陣難、毒薬難、毒虫難、一切の怨衆悪人難などの諸悪をまぬがれ、失道曠野の中においてこの天はその人を守護して捨てず必ず危窮を免れしめるという。

いかにも伊賀甲賀の忍者にふさわしい守護神である。自然、かれらにひろく信依されていた。


(司馬遼太郎「梟の城」)

MEMO
司馬遼太郎「梟の城」。1958年(昭和33)9月、日刊宗教紙「中外日報」に連載した「梟のいる都城」の改題し、講談社より刊行。昭和35年第42回直木賞受賞作品。豊臣秀吉の命を狙う伊賀忍者、葛篭重蔵を主役に据え、忍者の世界から抜け出そうとする石川五右衛門との対決。女忍者との許されぬ恋、宿敵である甲賀忍者との凄まじい死闘を描く名作です。
意訳
仏教の守護神である摩利支天は、サンスクリット語で「陽炎(かげろう)」の意。春の野辺にもえたつ陽炎は、その形相を見ることができず、手にとることもかなわない。

「天(女)あり。摩利支と名づく。常に日天の前に行く。日天は摩利支天を見ることなく、摩利支天はよく日天を見る」という「摩利支提婆華鬘経」の章句は、陽炎をもって人格神に具象した古代印度人の美しい想像力を偲ばせる。

その姿は、天女に象どられ、頭には瓔珞の冠をいただく。左手に天扇を持ち、右手は下へ垂れて掌を外へむけ、五指をのべて与願の勢をなす。しかもその姿は人には見えない。ただ摩利支天のみ人を見ることができる。この摩利支天を祈念すれば、余人に知見せられることはない。また余人に束縛されることなく、しかもさまざまな災難が身に降りかかろうとも、摩利支天は人を守護して、見捨てることもない。だから絶体絶命の窮地に追い込まれることを免れるというのである

摩利支天が「隠形の守護神」とされるのは、摩利支天が常に太陽の前を行くからです。太陽のまぶしさが、その姿を隠すのです。それゆえに人は摩利支天を見ることも、知ることも、その他いかなる干渉もできません。

そうした功徳を持ち合わせた守護神ですから、摩利支天の加護を得ることができるなら、加護を得た人もまた同様の功徳が得られると、お経には説かれています。

 

戦国武将はいうまでもなく、忍者たちも、摩利支天のこの「隠形」の力を期待し、念持仏として身に付けて、身を隠す方術や、さまざまな呪法を実践したようです。いかにも摩利支天は、伊賀甲賀の忍者にふさわしい守護神であることが知られ、おのずと忍者に広く信じ、拠り所とされていたことがわかります。

「摩利支天」の異名をもつ忍者

玄以が待っている男には、摩利支天の異名がついている。この異名は伊賀忍者のあいだでは類似のものがなく、ただ甲賀忍者の仲間にかぎって用い、それもなまなかな術者には与えられなかった。

一郷一代一人という不文律があり、いわば卓抜した術者にのみ仲間が授ける称号のようなものであったらしい。

さきにのべたように、摩利支天は梵語でかげろうのことである。

陽炎のごとく人に見えず手に取れず、摩利支天のごとく諸難を払いのける玄妙な通力をもつというところからその異称が来た。

(司馬遼太郎「梟の城」)

注意
甲賀忍者の仲間にかぎって、なまなかな術者に「摩利支天」の称号が与えられた。一郷一代一人という不文律があり、卓抜した術者の仲間が授ける称号のようなものであったらしい。最高の術者が、摩利支天そのものとして、仲間から崇められたということは、当時の忍者たちに摩利支天が広く信仰されていた証拠ではないでしょうか。

摩利支天を信仰した忍者は、陽炎のごとく人に見えず手に取れず、摩利支天のごとく諸難を払いのける玄妙な通力をもって、乱世を生きて生きて生き抜いたに違いありません。

隠形 どろんろん

隠形 どろんろん

伊賀甲賀の忍者が崇尊した「摩利支天」

 子の刻、寺のなかから一流の白い旗がひるがえった。旗には「南無」とのみ墨書され、その下に、伊賀甲賀の者が崇尊する摩利支天の像がえがかれていた。旗竿を、一旗の墓石が背負っていた。

墓石には、安誉西念大禅定門と法名が銘記され、側面に、三州住人服部石州五十五歳と刻まれていた。服部大半蔵がそこにいた。伊賀者の旗を背負って、ひえびえと立っていた。

(司馬遼太郎「最後の伊賀者」)

MEMO
司馬遼太郎「最後の伊賀者」昭和35年11月、文芸春秋社より刊行。驚異的技能と凄じい職業意識をもつ怪人たち、伊賀忍者はいかにしてつくられどのように生きたか。城取り、後方攪乱、探索密偵等、戦国の武器として使いちらされた危険な傭兵。詐略と非情の上に成り立つ苛酷な働きが、歴史の動きに影響を与えた不思義な人間たちを自在に描く短編作品。文庫本のカバーには、甲賀伊賀忍者が崇敬した摩利支天像があしらわれています。

ご注意
伊賀忍者も、甲賀忍者も、摩利支天を崇尊し、なかでも伊賀者の旗印は、白い旗に「南無」と墨書し、その下に摩利支天の像がえがかれていたとあります。

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