焼八千枚護摩供

 焼八千枚護摩供

【金沢市・宝泉寺】

 炎の中から「仏性」見出す

五色の幕が張られた本堂には、70人近い信徒が詰めかけていた。八千枚という数は、釈迦が娑婆世界に八千度往来したという故事にちなんでおり、本堂の一角には洗って天日乾燥させた護摩木が山積みされていた。午前10時、辻住職が純白の浄衣を身に付け、修行を手助けする僧侶6人とともに姿を現した。読経に続いて太鼓が激しく打ち鳴らされた。

井桁に組んだ護摩木に点火されると炎が3メートル近く舞い上がり、辻住職がその中に一枚ずつ護摩木を投じ始めた。

「焼八千枚護摩供」は厳密に言えば、辻住職が宝泉寺に入山した翌日の平成7年3月21日から始まった3年越しの修行である。

入山と同時に「一千座護摩供」に入り、毎朝6時から護摩供を2時間たき続けた。千座を達成した後、今年10月24日からは毎日3回の護摩と水行を繰り返し、一回の座で真言を2500回、この1週間は5000回唱えた。

水と野菜、木の実、果物以外はすべて断つ3週間の食生活で11キロやせたという。

前日から断食、断水したため、辻住職は衰弱しきっていた。その体に火炎のすさまじい熱が襲いかかる。この修行で極度の脱水状態に陥り、失神する者は後を立たないという。

辻住職の表情もしだいにうつろになり、周囲の僧侶が水で冷やしたたおしぼりを後頭部や首筋にあてがった。すでに口の中は熱風で軽いやけど状態だった。

護摩木をくべる辻住職の手は休むことなく、延々と同じ動作が続けられた。信徒たちは辻住職と心を合わせるように般若心経を唱え、堂内は炎を介在した一体感に包まれた。

学芸員から転身

辻住職は尼僧の後を継ぎ、宝泉寺の27代目に就いた。真言宗の行者と言えば、近寄りがたい、いかつい風貌を連想するが、辻住職は物腰柔らかく、腰の低いタイプである。聞けば、もともと博物館の学芸員だったという。

真言宗の拠点である和歌山県高野町に生まれた辻住職は、大学卒業後、高野山の宝物を一堂に集めた「高野山霊宝館」に勤め、密教美術を研究していた。僧侶の道へ進んだのは、こんな思いが生じたからだという。

「密教は美術として扱うには限界がある。深いところまで行き着くには和尚さんにならないといけない。やればやるほど拝みたくなったのです」

卯辰山の中腹に位置する宝泉寺は、障害を取り除き、勝利の神とされる「摩利支天」を本尊とし、県議、市議などが参拝する選挙の祈願寺としても知られる。

この摩利支天は藩政期には金沢城下の守り本尊とされ、戦時中は浅野川沿いに置かれ、空襲を逃れる護摩祈祷も行われたという。

何も分からぬまま宝泉寺に着任した辻住職も、摩利支天の歴史的な重みを知り、それが「焼八千枚護摩供」に駆り立てる力にもなった。

「へんな言い方ですが、この御本尊が動きやすいようにしたい。それには浅知恵言うても仕方ない。無言のまま行をすることで、信者さんに自分の姿勢を感じ取ってもらいたかった」

 「ただ、ありがたい」

護摩木をすべて焼き終えたのは、始まってから5時間後の午後3時半。辻住職は周囲の僧侶に小わきを抱えられて立ち上がり、信徒の方に向き直った。そして乾き切った口でたどたどしく、「ただ、ありがたい」と荒行達成の充実感に浸った。

「私が仏を拝んでいると思っていたのが、実は仏が私を拝んでいた。拝まれ同士の自分がそこにいた。それに気づいた時、涙が止まらなかった。仏の子として生まれたはずなのに、ここまでせんとなんで分からんのか自分が情けなくて…」

炎の中から自ら「仏性」を見出したという辻住職の思いを、信徒すべてが共有するのだろうか。堂内から、すすり泣きの声がやむことはなかった。

メモ

宝泉寺の摩利支天

東京の徳大寺、京都の建仁寺禅居庵とともに日本に3体存在する一つ、高さ5・4センチ。摩利支天は漢訳経典で陽炎、威光と訳され、日本では武士の守護神として護身、保財、勝利をもたらすとされた。前田利家もかぶとの中に納めて出陣したとと伝えられている。

(「神よ仏よ 信仰厚き北陸路を行く〈38〉北國新聞、1997年12月9日)


燃えさかる信仰の炎

7時間祈り続ける
真言密教 最も過酷な荒行

辻さんがこの法会を成功させたのは今回で5回目となる。先月22日からわずかな水とそば粉などを除いて食を断ち、未明の午前1時半に起床、一日に三度、小間を焚く行を毎日続けてきた。法会は祈りの集大成と位置づけられ、釈迦が娑婆世界に八千回往来したとの故事に基づいて、炎の中に八千枚の護摩木を投じる。衰弱した体に炎の高熱が襲うため、法会の途中で気を失う行者も少なくないとされる荒行である。

白装束の辻さんは午前10時から護摩に向かい、本堂では、檀信徒の鳴らす錫杖の音、法会を手伝う僧侶の鳴らすほら貝や太鼓の音にあふれ、高さ2メートル以上に燃え上る炎を中心にした、荘厳な信仰空間が出現した。

午後5時、結願を果たした辻さんはよろめくように護摩壇を後にし、かすれた声で「人間はチームワークです。周囲の皆さんの助けがなければ、到底法会は出来なかった」と感謝の言葉を述べると、檀信徒から拍手がわき起こった。

(北國新聞、2005年11月13日)

(北國新聞、2005年11月13日)
(北國新聞、2005年11月13日)

 炎に願託す

宝泉寺で「八千枚護摩供」

荒行6時間 炎に願託す

子来町の真言宗宝泉寺で22日、真言密教で最も過酷な荒行とされる「八千枚護摩供」が営まれ、檀信徒約70人が6時間にわたり護摩木を炎にくべ続ける辻雅榮住職(50)の姿に息災などの願いを託した。

釈迦が現世に八千回往来したという故事に基づき、辻住職は火の粉を上げて燃えさかる炎の前に座し、八千枚の護摩木を投じた。檀信徒が錫杖を鳴らし、般若心経などを唱えて見守る中、法会は結願を迎えた。

辻住職が八千枚護摩供を成功させたのは8回目。3週間前から少量の果物や木の実など以外は食を断ち、午前1時に起きて日に3回護摩を焚く加行を続け、この日に臨んだ。

(北國新聞、2010年11月23日)

(北國新聞2010年11月23日)
(北國新聞、2010年11月23日)
オンマリシエイソワカ
オンマリシエイソワカ

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