松尾芭蕉と柳隠軒

金沢宝泉寺の柳隠軒蹟に建つ芭蕉句碑

浅野川にかかる梅ノ橋からから上手を眺めると、白く美しいアーチを描く天神橋に卯辰山が迫り、春の桜、初夏の新緑は「森の都」と呼ばれた金沢の景観を今も残しています。

梅ノ橋には瀧の白糸の碑とヒロインの水芸師白糸の像があり鏡花文学の風情に触れる場所として知られ、また橋を渡ると五木寛之の「朱鷺の墓」の舞台として知られる「ひがし茶屋街」が観光客の旅情を満足させています。

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松尾芭蕉と鶴屋句空

1689年(元禄2)陰暦7月15日、芭蕉が曽良を伴なって倶利伽羅峠を越えて金沢に到着した、「奥の細道」の旅については広く知られていながら、精しい記録に欠けるためか、芭蕉の足跡を尋ねて訪れる人は少ないようです。

金沢に旅宿した芭蕉は某日、鶴屋句空の草庵柳陰軒に一泊したと伝えられています。この柳陰軒は、子来坂を上ったところ、前田利家公の摩利支天を祀る当山宝泉寺の境内にあったようです。

芭蕉は某日、鶴屋句空の草庵柳陰軒に一泊したと伝えられています。当時、大きな藤の大樹があって、その陰に草庵(柳隠軒)があったそうです。

境内には、いまでも藤の太い木があります。「つる」というより、どう見ても太い木です。それがケアキの巨木にそって、天にむかって駆け上がっています。はるか空の上で花をつけ、秋になると藤の実が天から降ってきます。

 「柳隠軒址碑」ちる柳あるじも我も鐘をきく

金沢宝泉寺の柳隠軒蹟に建つ芭蕉句碑
宝泉寺の柳隠軒蹟に建つ芭蕉句碑

句碑は、ひがし茶屋街から子来坂(金沢市内で自動車が通るもっとも急な坂道として有名)を経て、当山の石段を上がって、すぐ左。サツキのかげにあります。高さ60センチくらいの小さな自然石です。

また芭蕉は、浅野川大橋近くの立花北枝の源意庵での句会に招かれ、

「あかあかと日はつれなくも秋の風」の名句を披露しています。

聞くところによると「秋の風」は、最初「秋の山」とあったのですが、北枝が進言して「秋の風」と改められ、「さればこそ金城に北枝あれ」と翁の賞賛を得たということです。

当時、浅野川ぞいには、蓮昌寺の秋の坊や、春日町の如柳など蕉門の俳人が多く住んでいたそうです。今も卯辰山の裾に連なる寺院群には俳人の墓石や句碑が多く見られます。

当山には、蕉門の桜井梅室の句碑もあります。 ぜひ一度、おたずねください。

鶴屋句空(つるやくくう)

俳人、加賀芭門の逸材。京都で仏門に入り、句空坊または句空法師といつた。後、宝泉寺境内に草庵をつくり柳陰軒(りゅういんけん)と名付けた。1689年(元禄2)金沢へ来た芭蕉が立ち寄り、鶴屋句空の草庵「柳陰軒」をしのんで句を残したと伝えられる。句空の柳陰軒跡を記念して建てられた碑がある。宝泉寺境内に入ってすぐ左に「柳陰軒址碑」と刻んだ自然石に「ちる柳あるじも我も鐘を聞く 」の句が刻まれている。

あわせて目を通していただきたい記事があります。

金沢 摩利支天 宝泉寺 オンマリシエイソワカ
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